古代史が大変な盛り上がりです。奈良市にある富雄丸山古墳という、これまでほぼ無名だった円墳(4世紀)から、類例のない盾形銅鏡と日本最大級の2メートル超の蛇行剣が出土しました。
大ニュースになっています。
初日は、銅鏡形の盾かと思ったためこんなふうに描きました。鏡だから丸いのかと。
その後、形が明らかになって方形がベースで大きさも60センチくらいと判明。剣は蛇行してるとのことで少し描き直しました。
2日目は、蛇行剣も想像より長くてなんだか凄そうということになってきて、剣をメインに描き直しました。4世紀の服装とか髪型は分からないけど、出土品で鍬形石というのがこの時期の古墳から出ていて、トーハクの考古でも並んでます。
わたし的にはずっと用途が不明だったのですが、両手で持てないくらいの長さの剣を支える道具にしたらどうかなと思いついたので、コーデしてみました。
4世紀に何があった?
4世紀は、高句麗の広開土王碑で、391年に倭国の軍勢が朝鮮半島に来て新羅と百済を服属させたが、高句麗が撃退したとあります。この頃、中国は五胡十六国→南北朝時代の乱世です。413年から倭国は南朝側に使者を送るようになります。
朝鮮半島は三国時代ですが、昨年、歴博でいま九州国立博物館で開催中の「加耶」でもあるように、実際は四国時代でした。
今回の盾形銅鏡や蛇行剣は、武器として実用性はあまり無いでしょうけど、卑弥呼的な祭祀重視から、武人に力が集中して祭祀的なリーダーも担っていくという過程を示してる気がしますね。鎌倉時代以降に武士層が政治を担うのと似たような流れでは?
国宝間違いなし?!
気が早いですが、おそらく国宝指定されるでしょう。富雄丸山古墳出土品は1957年にすでに一括で重要文化財に指定され、京都国立博物館が所蔵しています。今回の出土品も一括の中に加えて上で国宝へ昇格という流れが予想されます。
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9767
4世紀は世界史でも大波乱
富雄丸山古墳は報告書を読むと、古墳時代前期の終わり、4世紀末くらいみたいですね。西暦390年とかそういうあたり。
391年から倭国の軍勢が朝鮮半島に渡ってきたとする広開土王碑(好太王)の時代ですので、やはりこの状況は無視はできないですね。
高句麗側のポジショントークということを前提で、広開土王碑によると
・391年以降、倭国が半島進出、百済と新羅が服属
・396年 高句麗が百済を攻め降伏
・399年 百済が高句麗を裏切り倭国側につく
・399年 倭国側の新羅が高句麗側につく
・400年 高句麗、新羅援助で遠征、倭国軍撤退
中国は316年に統一王朝の晋が滅び五胡十六国時代に。330年にはローマ帝国がコンスタンティノープルへ遷都、375年に西ゴート族のドナウ川渡河からの民族大移動と、世界中が大騒乱時代。地球的な気候寒冷化が原因とも言われています。
正始元年(240年)に晋で作られた三角縁神獣鏡を100年使い続け、4世紀になって古墳に副葬も。価値観変わってきたのか?
群馬県の蟹沢古墳出土の重文(東博蔵)の鏡には文字も。ただ、子孫繁栄を願いますくらいしか書かれていない。
当時中国青銅器の文字の目的は祈りで、文字=記録のためはもっと後?
↑これは訂正します。兵馬俑展(上野の森美術館)での展示の中に、秦(紀元前200年前後)の木簡に、びっしりと記録用(出納帳的な)の文字がありました。木簡はすぐ腐るので、たまたま井戸の中から見つかったものだそうです。
記録に文字を使ったのは秦(兵馬俑や伝統的な青銅器のスタイルからの脱却を含めて新しい独自の文化を取り入れていた)からという可能性を感じましたが、4世紀の話に戻ると中国では文字は既にたくさん書かれていました。
問題は、木簡から紙にいつ変化したか、ですね。4世紀といえば、書聖王羲之の時代ですから、4世紀にはすでにあったでしょうけど、倭国と半島諸国との東アジアの外交では、木簡や紙の文字での情報のやり取りがあったのか?それとも使者(人)による口伝だったのか?
富雄丸山で言えば、朝鮮半島の騒乱(高句麗による南への侵攻)がどのように倭国中枢(纒向遺跡)に伝えられたのか?
「武力を持った敵が攻めてくる?よし、こっちも武器とやらを作ろう!どんな?卑弥呼さま以来、我々が得意の魔法も使えるのにしよう!鏡とガッチャンコ」(←戦場のリアリティーを分かってない人の発想)
これからも富雄丸山は熱そうですね。