左の左は、右です、みたいな。
日本共産党が北方領土について、「4島返還」どころか、千島列島すべての返還を主張していることに驚いた。
昔からそう主張していたのかもしれないが、意外だった。
読売新聞での「領土」についての連続インタビューの5回目(2019/12/14)で、志位和夫共産党委員長が答えている。
第2次世界大戦末期にソ連が千島列島の引き渡しを英米と約束したヤルタ協定が結ばれ、1951年のサンフランシスコ講和条約で日本は千島列島を放棄した。これは「領土不拡大」という戦後処理の大原則を踏みにじった不公正な取り決めだった。日本政府は「千島列島に択捉、国後両島は含まれない」と説明するが、国際的には通用しない。
この不公正を正し、千島列島放棄を定めた講和条約の条項を廃棄するべきだ。「北千島も含めて全て日本の領土だ」という交渉をやって初めて、南千島を取り戻すことができる。
ソ連をはじめとする共産主義国家(当時の東側)の諸国が、サンフランシスコ講和条約に反対したことは有名だ。
1951年9月4日より8日まで、サンフランシスコにおいて52カ国の代表参加のもと、平和会議が開催されました。アチソン米国務長官は9月2日、会談に先立って行われた吉田全権との会談の席で、平和条約調印に対する態度未決定の諸国に対して日本が外交力を発揮して調印を促すよう求めました。これを踏まえて吉田全権は、賠償問題などに関してインドネシアやフィリピンなどと議場外で個別協議を行いました。
平和会議では、9月5日より7日まで8回にわたり全体会議が行われました。全体会議では、米英両国全権による条約案の説明に続き、各国全権が意見陳述を行いました。7日夜の第8回全体会議では吉田全権が受諾演説を行い、8日午前に平和条約署名式が行われました。会議参加国のうちソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3カ国を除く49カ国が平和条約に署名しました。また、議定書には27カ国が署名し、日本は国際条約の加入等に関する宣言と戦死者の墳墓に関する宣言にも署名しました。
引用:外務省
ソ連が当事者にもかかわらず、ソ連が署名せずに、日本が「南サハリンと千島列島」を放棄するという講和条約が調印された。このすれ違いが北方領土問題に至っている。
そうした流れで、ほとんど日本人にも説明されずに暗黙の了解とされているのが、「南サハリン(南樺太)」の領有問題だ。
地図を見ると、なぜか空白になっている。
誰が見ても、ロシア(ソ連)の領土だろうと思うのだが、日本の地図は、南極同様に「白=だれのものでもない土地」だ。
北方四島を突き詰めると、「南サハリンは誰のもの?」という話になるはずだが、この問題はほとんど触れられない。さすがに「南樺太はロシア領ではありませんよ」と日本政府が交渉に持ち出したら、さらなる交渉妥結は遠のくのが現実だろう。
今回、共産党委員長の正論中の正論であり極論を目にして、あらためて地図を見て、南サハリンの白さを確かめて、北方領土の返還の難しさにため息をついた。
以下は、ウィキペディアの「ユジノサハリンスク」を引用。逆に「ロシアによる領有は認められない」国際法上の理屈を知りたいものだ。
ユジノサハリンスク(露: Южно-Сахалинск、英: Yuzhno-Sakhalinsk、ユージュナ・サハリーンスク)は、ロシア連邦の実効支配が及ぶ極東連邦管区サハリン州の都市で、同州の州都である[1]。なお、この都市を含む北緯50度以南の樺太については、ロシアによる領有を認める国際法は存在しない。
日本語では旧称である「豊原」と呼ぶこともあるが、ユジノサハリンスク市域は日本統治時代の行政区分では、豊原市、豊北村、川上村のそれぞれの一部にあたり、豊原とは区域が完全には一致していない。日本統治時代(1905年 – 1945年)は樺太庁が置かれていた。