鎌倉殿の13人もそろそろ佳境です。ハッピーエンドでは終わらそうな。。。
さて、昨年(令和3)9月1日~12月5日に開かれていた「鶴岡八幡宮の名刀ー歴史に宿る武士の信仰ー」(鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム)の鑑賞ログです。鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムが2020年に重要文化財に指定されたのを記念するもので、源頼朝が寄進した刀剣「衛府の太刀」など国宝6点(指定件数では2件)が並ぶ豪華な内容でした。展示品はすべて鶴岡八幡宮所蔵品。
鎌倉殿で頼朝を「武衛(ぶえい)」と親しみをこめて呼ぶ上総介を思い出させるエフ(兵衛府)の太刀です。武衛や衛府は、律令で定められた宮門の護衛する兵のトップ「兵衛府」のことです。
また、後北条氏の氏綱が奉納した桁外れの巨大な太刀3振り(重文)も見ものでした。
家康の側近の本多弥八郎が家康の無事を祈って奉納した超巨大な太刀もあり、来年の大河ドラマ「どうする家康」で再注目される可能性もアリです。
コンテンツ
国宝 沃懸地杏葉螺鈿太刀 無銘 衛府の太刀 鎌倉時代
沃懸地杏葉螺鈿太刀 無銘 「衛府の太刀」には甲と乙の2振りあり、それぞれに拵えがあります。国宝指定としては鶴岡八幡宮の「古神宝類」が一括指定されていて、その中のものです。
拵えが見事です。沃懸地(いかけじ)とは、蒔絵の一種で、漆を塗ってから全面に金粉を沃(そそ)ぐように分厚く蒔いた、厚塗りゴールド仕立ての豪華なものです。さらに、高級な蒔絵に欠かせない夜光貝を使ったラメ状の螺鈿(らでん)でリーフ(杏葉)をかたどっています。柄は銀の鮫皮状。
『集古十種』などに「頼朝が帯せしものと伝わる」とあり、頼朝か、頼家、実朝か、鎌倉初期の最高の武人のための最高の刀です。
国宝 太刀 銘 正恒 鎌倉時代
鎌倉時代の名刀「太刀 銘 正恒」です。正恒は青江妹尾。現存する古青江の正恒で最も健全な一振りとされています。
元文元年(1736)、8代将軍徳川吉宗が鶴岡八幡宮に奉納しました。
重文 太刀 銘 國吉 鎌倉時代
重要文化財の太刀 銘 國吉。鎌倉時代の山城粟田口派を代表する刀工・国吉。弟は、短剣で知られる藤四郎吉光。明治天皇が寄進しました。
ここまでの刀剣4振りは、刃文は見たところまっすぐでシンプルでした。細かく沸(にえ)や丁子などはあるようですが。
重文 太刀 銘 長光 鎌倉時代後期
重要文化財「太刀 銘 長光」は鎌倉時代後期。ここから刃文が大きく波打つようになります。デザイン性が高まってきたのでしょうか。長光は、備前長船光忠の息子です。宝暦3年(1753)に9代将軍徳川家重が奉納しました。
北条氏綱が奉納した1メートルを超える太刀
圧巻だったのは、戦国大名の後北条氏の北条氏綱が奉納した大太刀3振り(99センチ、89センチ、102センチ)。北条氏綱は、後北条氏の第2代で、北条早雲の息子です。
北条早雲は伊勢氏を名乗っており、北条氏を名乗りだしたのは、氏綱からです。もちろん、鎌倉時代の北条氏をなぞらえており、鎌倉幕府と一体だった鶴岡八幡宮への奉納は極めて政治的な意味が高かったのです。天文7年(1538)に奉納しました。
奉納だけでなく、後世にもきちんとそのことを伝えたかったのか、刀剣には、非常に長い銘が彫ってあります。北条でなく北條となっているのもポイントですね。
奉納鶴岡八幡宮御宝殿
北條左京大夫氏綱
天文七戊戌年八月二日
所願成就皆令満足
相州住綱広作
(最後の1行だけ、2振り目は綱家作、3振り目は康国作となっている)
願いがかなってみな満足の意味は、北条への改名の願いではないでしょう、名目的には。大永三年(1523)にすでに北条に替えています。
では、なにかというと、氏綱は1532年(天文1)から焼失した鶴岡八幡宮の再建に着手していました。8年後に完成させますが、おおむね再建の目処がついた、天文7年にこの再建へのお礼をしたということでしょう、繰り返しますが、名目的には。
また、この拵えは、完全に刀身と同時期に作られたものと分かっています。ご存じのように、刀身と拵えの時代が違う(基本的には拵えは劣化が早いので、新しいものに替えられる)ことは当たり前。しかし、この3振りは奉納されたときと同じ拵えもセットで残っていて、室町時代の武士の刀の拵えがどんなものだったのかを知る上で、非常に貴重です。半分をひもでグルグル巻きにしているのも、それが意味のあるスタイルだったのでしょうね。
本多正信が家康の無事を願って奉納した大太刀
すごいものを見た、というのが実感でした。
徳川家康の重臣である本多弥八郎正信が、「唐入」(文禄・慶長の役)で肥前名護屋城に駐屯する家康の武運長久を願って、天正20年(1592)に奉納した大太刀で、長さは134センチもあります。
銘は以下のとおり
鎌倉鶴岡八幡宮寄進者也
本多弥八郎正信
天正廿年壬申八月十五日敬白
大納言家康卿武運長久殊者
今度唐入早速御開陣
丹誠旨趣仍如件
です。本多正信は、家康の側近中の側近で、家康のためには謀りごとも辞さなかった人物と見られています。なるほど、これほど真摯に家康のことを祈っていたのですね。正信は、家康の江戸入府とともに、相模国玉縄(甘縄)に1万石を与えられて関東総奉行に任ぜられていますので、この関係で、鶴岡八幡宮とのパイプも出来たのでしょうか。
傷だらけの太刀「ももかち」(大和千手院)
神社に奉納する刀は、基本的には綺麗なものが多いようです。そのなかで、異色なのが、「太刀 朱銘 号ももかち(大和千手院)」(鎌倉時代)です。図録によると、朱でなにか書かれているようだけども判別は不能で、号の「ももかち」は、おそらく「百戦百勝」の意味ではないかということです。
そして、なんとこの太刀、よーく単眼鏡でみると、刀傷がありまくり、つまり実戦でなにかを切りまくった刀であると考えられているそうです。
国宝 籬菊螺鈿蒔絵硯箱 鎌倉時代
源頼朝が後白河法皇からもらった硯箱を、鶴岡八幡宮に奉納したとされています。たっぷり金粉を注ぎ蒔いた沃懸地(いかけじ)で、籬(まがき)や菊のデザインを螺鈿で施しています。中身の文房具類も、精巧でとても美しいです。
今年のMOA美術館で開かれてた大蒔絵展でも出展されていました。国宝としては神宝類として一括指定。
国宝 朱漆弓 黒漆矢 沃懸地杏葉螺鈿平胡籙
弓と矢は平安時代のもの。檀の木で作られた2メートルの弓は朱塗り。矢は、当初から奉納用に作られたとみられ、正月に授与される破魔矢の起源であるとのこと。沃懸地杏葉螺鈿平胡籙は「胡籙(やなぐい)」。弓と矢よりは新しい鎌倉時代のものですが、沃懸地(いかけじ)と螺鈿の高級蒔絵で豪華にデコレーションされています。この3つは、国宝としては神宝類として一括指定されています。
参考文献 展覧会図録『鶴岡八幡宮の名刀ー歴史に宿る武士の信仰ー』