織田信長と言いたいところですが、これがなかなかややこしいのです。
信長の前に斎藤氏時代にも、稲葉山城として金華山のどこかに城が存在していましたが、とりあえず信長以降だけに絞っても
1)織田信長(1567年=永禄十年に小牧山城から移る)
2)織田信忠(信長長男、1576年に信長が安土城へ移った後に岐阜城主)
–本能寺の変(1582年)で死亡
3)織田信孝(信長三男で、神戸信孝)
–賤ヶ岳の戦い(1583年)で柴田陣営なので切腹
4)池田元助(信長の乳母兄弟で信長の2歳下の池田恒興の長男)
–小牧長久手の戦い(1584年=天正十二年)
(小牧長久手の戦いで池田恒興=大垣城、元助=岐阜城が戦死した後、輝政は大垣城を経て岐阜城主になる)
5)池田照政(恒興次男) 1584年〜1590年(天正十八年)
山頂の模擬天守閣南西の「上台所」(現・岐阜地方気象台金華山分室)付近で見つかった金箔瓦は池田期と考えられます(註1)
–小田原の陣(1590年)
6)豊臣秀勝(秀吉のおいっ子)
7)織田秀信(信長の孫で信忠の長男=三法師)
–関ヶ原の戦い(1600年=慶長5年)の前哨戦で西軍につき、落城、廃城。
その後、岐阜市域の中心の城は金華山の南の平地にある加納城へ移る。
つまり1567年から1600年まで、33年間にわたり、7人もの城主がいたのです。
ところが、岐阜城の発掘にまつわるニュースでは、この33年間に、だれも信長時代の城を改修や拡大を「していない」という事が「定説」として、それを基に報じられる形になっています。
しかし、そんなはずはありません。
30年以上もの長い時期のどの城主の時代の遺構や遺物なのかを確認せずに、すべて信長の時代とするのは信長の実像に迫るどころか、誤読の上に仮説を立てることになりかねません。
「なんでも信長」であってほしい、見たいものだけ見る発掘ではなく、未来への学問への良質な資料となるように期待しています。そのために必要なのは、データの開示つまり発掘調査報告書の刊行です。山麓の調査を含めて刊行が待たれますね。
岐阜新聞(2018/11/27)より
岐阜市は26日、市内の金華山山頂付近で行った岐阜城跡の発掘調査で、既に見つかっている石垣の一部が、戦国武将織田信長が城主の時代(1567~76年ごろ)に築いたものであると確認したと発表した。山麓の信長公居館跡の石垣と共通する特徴があり、山上部の他の石垣も信長が築いた可能性が高まったとみて、来年度以... 金華山上部の石垣、信長が築く 岐阜城発掘調査 - 岐阜新聞Web |
参考文献
嶋上ちはや「中世城郭の調べ方 織田氏の城岐阜城を歩く」『歴史読本2013年9月号』158〜165ページ
註1 ✳︎嶋上ちはや氏(城郭懇話会)は上台所で見つかった金箔瓦について織田信忠時代と評価しています。