壬申の乱で大海人皇子が来たの?!伊勢湾も見えて眺めいいー!
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電撃的な軍事クーデター「壬申の乱」の現場
飛鳥時代末の672年、当時都のあった近江国の大津(滋賀県)から政治的な引退を表明して、奈良県の奥地・吉野に隠遁していた大海人皇子が挙兵します。当時の「天皇」であるおいっ子の大友皇子(この乱で負けたため天皇と呼ばれませんでした)から天皇の座を奪い、天武天皇となることに成功した軍事クーデーターです。
当初はすくない兵しかいなかった大海人皇子は、
吉野(奈良県)→伊勢(三重県)→尾張(愛知県)
へと少数で移動して、尾張で現地の有力者尾張氏の支持を得て、大兵力をゲットしました。そこから大津宮へ向かって進撃。
関所のある美濃(岐阜県)の不破の関周辺で、最初の大会戦を制しました。1000年後には、みなさんご存知の関ヶ原の戦いがおなじところで起きますね。大海人皇子は、そして近江(滋賀県)でも勝利します。
この年の6月から7月にかけて約1ヶ月に及ぶ軍事クーデターは成功をおさめました。この途中で寄ったのがこの遺跡です。
国史跡 久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)とは
まだ味方が少ないときにこの場所に来たんだね
ここで大海人皇子はなにをしたのかな?
四日市名物のトンテキ食べてご飯休憩かな?
まぁ休憩はしたじゃろうが…
伊勢の天照大神を遥拝したんじゃよ。
遥拝というのは、遠いところから神様などを拝むことじゃ。
あっ、古代人さん、こんにちはー!
それって伊勢神宮ってこと?
夜景で有名な四日市工業団地の煙突群を見学したのかもしれなくないかな?
煙突は…ないな。伊勢神宮のほうじゃよ。
ただ伊勢神宮という神社は、壬申の乱の戦勝の御礼に乱の後に創建されたとも言われておるので、この時点で神社として存在したかはよくわからんのじゃ。
当時はここになにがあったのかな?
そこがポイントじゃ! この遺跡の名前「官衙」は「かんが」と呼んで、古代の役所「郡家(ぐうけ)」を意味するんじゃ
四日市周辺、伊勢の北部は朝明(あさけ)郡と呼ばれておって、朝明郡の市役所のようなところがこの場所だったのじゃ
この遺跡にはだいたい3時期の役所が建っていたんじゃが、一番古いものは670年頃の建物跡とみられておる
ちょうど壬申の乱(672年)の時代ですね!
役人が接待してイノシシの焼肉、トンテキの元祖がでたかもねー!
久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)のポイントは以下の大きく3つじゃ!(トンテキにこだわるなぁ)
1 壬申の乱の戦勝を願い天照大神にお祈りした
2 普通の「市役所」は南向きなのに東を向いている
3 伊勢神宮創立の謎ときのヒントになる?
戦勝を願い天照大神にお祈りした場所
久留倍官衙遺跡=朝明郡役所跡は、Ⅰ期・Ⅱ期・Ⅲ期と時代によって性格の異なる建物が建てられていました。
Ⅰ期(飛鳥時代:7世紀第3四半期=650~675年の新しいころ、つまり670年ころか~奈良時代:8世紀前半頃)に、正殿・脇殿・東門(八脚門)とそれを囲む塀からなる郡衙政庁が、東向きに建てられていました。郡の政治を行う中心的な建物群です。
Ⅱ期(奈良時代:8世紀中頃から後半)では、全国的にもまれな長くて大きい建物を中心とした建物群が建てられていました。
Ⅲ期(奈良時代末~平安時代前期)では、税で集められた稲をおさめる床を持つ構造の正倉が複数建てられ正倉院が形成されていました。疑問?
なぜ東向きの建物が建てられたのでしょうか? Ⅰ期のあと、郡の中心の建物はどうなってしまったのでしょう? Ⅱ期の大きな建物は何に使われたのでしょう?
・ ・ ・みなさん、考えてみませんか・ ・ ・ ・ ・ ・
久留倍官衙(くるべかんが)遺跡は、三重県四日市市で初めて国の指定を受けた遺跡です。全国でもめずらしい東を向いた奈良時代の役所跡です。 【久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)】トップ - 久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき) |
四日市市の公式サイト ノリノリですねー
うむ、2018年3月25日に「くるべ古代歴史館」という施設がオープンしたり、門や建物を復元したりと整備をしておるからのぉ
論文も見ることができるしたくさん学習資料もダウンロードできて、充実したサイトですね。
でも、こう言ったらなんだけど、「市役所」の跡でしょ?
県庁舎くらいならともかく、市役所レベルの古代役所跡って全国にけっこうあると思うの。
なんで、この遺跡がそのなかで国指定史跡なのかな?
ばっかもーん!遺跡に優劣はないんじゃー!と言いたいが、そこがポイントじゃ。
やはり、壬申の乱とその後の天武・持統夫婦天皇による「律令国家」、さらには伊勢神宮の創立につながる遺跡というところが重要なんじゃよ。
日本書紀の記述ではどうなっているかの?
大海人皇子と奥さまらの一行は伊賀(三重県)を通って、鈴鹿の関から伊勢の国に入ったんだ。本能寺の変のあとの家康の伊賀越えルートと一緒だ。その道中は天気が大荒れで、かなり寒かったと書いているわ
そして、朝明郡に入ると突然天気がよくなるのじゃ、そこがポイントじゃ!遺跡の近くの川と考えられている迹太(トホ)川の辺りで、大海人皇子は太陽神である天照大神を拝んだんじゃ!
アマテラスとは太陽のこと
つまり、日の出を拝んだってこと?!今は南にある伊勢神宮にむかって拝んだというよりも、東からのぼる太陽=アマテラスにむかって拝んだ!それにならって、ここは南ではなく、東が正面なんだ!
大海人皇子は途中の荒天を「勝利の印だ」と強がっていたが、まわりの人たちも寒いし正直、ドン引きだったじゃろう。ようやく晴れて、気分があがった大海人皇子が今度はお天気は勝利の印とノリノリになったわけじゃ。このときはまわりも盛り上がったことじゃろう
あれ?イラストにあるように、実際には、天照大神を拝んだの場所は、この役所のある遺跡ではない川のほとりだったんだね
その後、テンションのあがった一行がこの遺跡の役所に入って宿泊し、トンテキを食べながら、四日市市の煙突群をみながら盛り上がったわけだ!
まぁ、そういうことじゃ(あえてツッコミもやめておこう)
そう考えると、670年頃にこれだけ立派な東向きの役所ができたのも。朝明郡という「日の出」を意味する郡の名前も…
…壬申の乱の真っ最中の建物というよりは、壬申の乱のあとの戦勝記念事業でできたものと。天武天皇に即位した大海人皇子の指示やまわりの忖度(そんたく)によって予算化されたと考えられるってことね?!すっごーい!おもしろーい!
伊勢神宮も戦勝記念事業の記念碑?
天武天皇が、迹太(とほ)川辺で天照大神(日の神・太陽)を望拝され、即位後、このときの望拝により勝利したことに感謝され、伊勢神宮の諸制度(神宮職員の整備・式年遷宮の開始・斎王制度確立)を整備されたと言われている。しかし、何故この地で望拝されたかについて詳しく論じたものはない。
(岡田登「壬申の乱及び聖武天皇伊勢巡幸と北伊勢-朝明郡家跡の発見を契機として」より)
伊勢神宮も国家的な組織の神社としては、壬申の乱のあとにできたとみられているんだね。
この遺跡はやはり、たんなる「一市役所」ではなく、国家的レベルの思い入れのある特別な役所として整備されたんじゃな。大海人皇子が実際に遥拝したとされる伝承地も四日市市内にあるぞ。迹太川がどの川のことなのかはっきりわかっていないんじゃが、一緒に見学して想像してみるとよいな
アクセス
公式サイトには、いろんな方面から車での行き方を動画で説明しているので、ぜひそちらで確認のうえおたずねください。
久留倍官衙(くるべかんが)遺跡は、三重県四日市市で初めて国の指定を受けた遺跡です。全国でもめずらしい東を向いた奈良時代の役所跡です。 【久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき)】アクセス - 久留倍官衙遺跡(くるべかんがいせき) |
天武天皇迹太川御遥拝所跡(県史跡、四日市市大矢知町1714)
日本書記天武元(672)年6月27日の条に「於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」と記され、天武天皇が壬申の乱の際、大和から伊賀、伊勢を経て美濃へ行く途中に、この地から伊勢神宮を遥拝し、戦勝祈願をした伝える。史跡地内には「天武天皇呪志の松」と称する松があり、地元では天武天皇の御遺跡として非常に大切に守られている。 天武天皇迹太川御遥拝所跡|観光スポット|観光三重(かんこうみえ) - 観光三重 |
参考資料
四日市市久留倍官衙遺跡サイト
岡田登「壬申の乱及び聖武天皇伊勢巡幸と北伊勢-朝明郡家跡の発見を契機として」『史料』第191号、皇學館大学史料編纂所 2004年発行(上のサイトでPDFでダウンロードできます)