寛徳2年1月16日(1045年2月5日)後朱雀天皇が後冷泉天皇へ譲位。(扶桑略記)
前年に書いた「後朱雀天皇宸翰御消息(護国品中云々)」(京都・陽明文庫蔵)は重要文化財
禅譲の異様な速度感
後朱雀の禅譲は、単なる父から子への穏やかな継承ではありませんでした。藤原道長の設計した娘を使った外戚摂関体制が、政治的な”自己複製”を試みた瞬間として読むことができます。この譲位は、摂関政治を頂点に押し上げるとともに、「終わりのはじまり」の伏線ともなるのです。
まず数字を並べてみると、その緊迫感が浮かびます。
| 寛徳二年(1045) | 出来事 |
|---|---|
| 正月十六日 | 後朱雀、位を後冷泉に譲る(受禅) |
| 正月十八日 | 後朱雀、落飾(法名:精進行)、同日崩御 |
わずか2日後に死んでいるのです。これは「生前退位」というより、死の直前に辛うじて譲位を完了させた、という性格に近いでしょう。37歳、在位わずか9年。崩御と落飾が同日というのも、剃髪の余力も尽きかけていたことを示唆している。
母系で読む——道長の血の連鎖
この禅譲を支えていたのは、藤原道長(966~1027年)の設計した外戚構造でした。
藤原道長
├── 彰子(一条天皇后)→ 後朱雀天皇
└── 嬉子(後朱雀の妃)→ 後冷泉天皇(後朱雀の息子)
後朱雀と後冷泉は、どちらも道長の外孫にあたります。父から子への禅譲でありながら、外祖父の系統は一本のままということです。嬉子はただし、後冷泉を産んだ直後の1025年に早世しており、後冷泉は母の顔を知りません。
立太子の早さ——即位の年に親王宣下
後朱雀は長元九年(1036年)四月に即位しましたが、同年十二月には早くも親仁に親王宣下を行い、翌長暦元年(1037年)八月には立太子しています。即位後一年足らずでの動きには、後継者問題を急いで固めようとした影の”大きな力”がありました。それは当時すでにこの世を去っていた道長(1027年没)の意志とも言えるかもしれません。
隠れた緊張——後三条天皇の存在
後朱雀には、後冷泉とは別腹の皇子がいました。のちの後三条天皇(1053~1129年)です。母は三条天皇皇女である禎子内親王。
– 後冷泉の母・嬉子は道長の娘 → 摂関家の外孫
– 後三条の母・禎子は三条天皇の皇女 → 外戚ではない
この非対称性が決定的でした。後三条は摂関家の外孫でないゆえに、政治的に不遇な扱いを受けます。兄の後冷泉が天皇になると同時に東宮(皇太弟)となりますが、後継者とは名ばかりで、実際には24年間、東宮に潜居(国史大辞典お表現)させられました。道長の息子・藤原頼通(992~1074年)の強い意向と考えられるでしょう。
摂関政治から院政へ
後冷泉の御代、つまり頼通による摂関政治は円熟の時代を迎えます。しかし、結果として後冷泉は後継ぎのないまま約20年後の1068年に崩御し、後三条天皇が即位します——それは摂関政治の事実上の終焉の始まりとなります。1086年に白河天皇(1053~1129年、後三条天皇の息子)が譲位して上皇となり院政を始めることで「院政」時代を迎えます。後朱雀の死の間際の禅譲の「選択」は、20年後の歴史の流れを決める伏線でもあったのです。



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