元禄2年(1689年)3月27日 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出発

元禄2年3月27日(1689年5月16日) 松尾芭蕉(1644~94年)が江戸深川から「奥の細道(おくのほそ道)」の旅に出発。5か月後、大垣(岐阜県)を再び旅立つまでがこの旅。
「奥の細道(おくのほそ道)」の自筆本は残っていない。曽良本・去来本・柿衛本などがあるが、芭蕉本人公認の去来本(素龍清書本)がある意味で完成系とも言える。というのも、芭蕉は晩年に成稿を能筆家(字がうまい人)の柏木素龍に清書を依頼。芭蕉が亡くなった年である元禄7年(1694年)に完成。素龍から完成品を受け取った芭蕉は表紙に自筆で「おくのほそ道」と題簽(タイトル)を付けて、最後の旅である大坂への旅に持参した。
そして旅の途中で郷里の伊賀上野(三重県)に寄り、その際、兄に預けた。おそらく兄ら実家の人に「おくのほそ道」を読んでほしかったのだろう。そして芭蕉は大坂から江戸へ戻るときにまた持参する予定だったはずだ。しかし、芭蕉はその年、大坂で病死してしまう。

ただ、芭蕉から譲り渡される遺言があったとして、弟子の向井去来に渡る。その後、去来は元禄15年(1702年)に初版本を出版。
その後、原本たる「素龍清書本(去来本)」は、去来の叔父の久米升顕→娘が若狭小浜(福井県)の吹田几遊に嫁ぐ際の引き出物に→几遊の死後に越前敦賀(福井県)の白崎琴路に形見として贈られる→琴路の死後に縁戚の西村野鶴に譲られる→以降、西村家に伝来し重要文化財(個人蔵)。(『「おくのほそ道」330年の旅』敦賀市立博物館、2019年の展覧会図録より)

また芭蕉に同行した曽良の自筆の旅日記は残っており、天理大学付属図書館が所蔵する重要文化財。ここで問題となるのが、曽良の自筆の旅日記は記録のために正確なのだが、芭蕉本人がプロデュースした公式「おくのほそ道」はその記録と異なる点が多々あるのだ。これは芭蕉のほうが正しいとはならない。芭蕉はあくまでノンフィクションとして旅の記録をしたかったのではなく、俳句の情緒あふれるノンフィクション風の歌物語を誇張や情緒をモリモリにしたフィクションとして書いたからだ。

俳人で画家の与謝蕪村よさぶそん(1716~83年)は芭蕉にあこがれて私淑し、オリジナルの挿絵(イラスト)をつけた「奥の細道図」を多数作っている。これはさらにフィクションにフィクションを重ねる形になる。

おくのほそ道は旅記録なのか、旅文学なのか、それとも文学をするための旅だったのか。少なくとも日記のような記録を残したいと思っていなかったことは間違いない。

2022年には与謝蕪村が奥の細道の全文を書写して9点の挿絵を描いた図巻が発見された。蕪村が奥の細道をテーマにした「奥の細道図」は3点(山形美術館蔵、逸翁美術館、京都国立博物館蔵)が重要文化財となっており、新発見の図巻もいずれは指定される可能性が高い。

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