応徳3年4月7日(1086年5月22日) 高野山金剛峯寺(和歌山県)の国宝「仏涅槃図」が完成。
エミ:サキちゃん、明日4月8日は何の日か知ってる?
サキ:えへん、知ってるよ。花まつり。お釈迦さまの誕生日でしょ。甘茶をかけるやつ。
エミ:正解。じゃあその前日、お釈迦さまの誕生日の前夜に、あえてお釈迦さまの「死」の絵の話をしようと思うの。
サキ:……攻めるね。
エミ:涅槃図。お釈迦さまが沙羅双樹の下で横たわり、弟子や動物たちが嘆き悲しむ場面を描いた絵よ。日本の涅槃図で現存最古のものが、いつ描かれたか知ってる?
サキ:(なぜか胸を張って)当然、知らない。
エミ:応徳3年。西暦1086年。高野山(和歌山県)の金剛峯寺に今も伝わる国宝「仏涅槃図」。この年号を覚えておいて。今日はこの1年を追いかけるわ。
サキ:オウトク3年、その1年を追いかける? 1枚の絵じゃなくて?
エミ:そう。この絵が生まれた年を知ると、仏涅槃図の見え方が変わるから。
「日本最古」の涅槃図が意味すること
エミ:国史大辞典の「涅槃図」の項目にはこう書いてあるの。「涅槃図の現存最古の例は金剛峯寺本(国宝)で、応徳三年(一〇八六)の制作である」。執筆は仏教美術の権威、中野玄三先生(嵯峨美術短期大学元学長)。
サキ:つまりこれより古い涅槃図は日本に残っていないんだ。
エミ:そう。涅槃図は宗派の別なく涅槃会の必需品として各寺院に所蔵されている。誕生シーンは彫像が多いけど、涅槃シーンはほとんど絵画であらわされるんだって。中国と比べても日本の涅槃図は現存数が圧倒的に多いそうよ。
サキ:確かにブッダが亡くなる瞬間だから、宗派を問わないよね。
エミ:だからこそ「最古」の涅槃図が、空海が開いた真言宗の高野山にあるという事実には重みがあるの。ちなみに「日本最大」の涅槃図は臨済宗の東福寺(京都市)の明兆筆で、縦12メートル、横6メートルで1408年の作品。
サキ:最古が密教の高野山で、最大が禅宗の東福寺。やっぱり宗派を超えてる。
エミ:さて、ここからが本題。応徳3年に何があったか。この年を調べれば調べるほど、涅槃図が「この年」に生まれた意味が見えてくるのよ。
応徳3年11月26日 ── すべてが動いた日
エミ:応徳3年11月26日。8歳の善仁親王が堀河院の邸で立太子。即日、父の白河天皇が譲位して堀河天皇になるの。父親が天皇の地位を幼い息子に譲るーーこれの意味は分かるわよね。
サキ:院政の始まりだ。
エミ:そう。白河上皇は自分の院で政を聴いた。天皇がいるのに、上皇が実権を握る。これが院政。「院政時代」のはじまりは辞書ではこの年になっているわ。
サキ:権力の「乗っ取り」だよね、ある意味。
エミ:鋭い。じつはね、応徳3年はあらゆる分野で「乗っ取り」が起きた年なの。
サキ:え?
エミ:院政だけじゃないのよ。一つずつ見ていくわね。
京都 ── 鳥羽殿と北面武士
エミ:まず京都。院政の始祖・白河天皇は退位して上皇になると、藤原季綱の鳥羽水閣という屋敷を改めさせて自分の「院」にした。これが鳥羽殿と呼ばれ、のちに白河・鳥羽・後白河の三代の上皇が御所として使う院政の舞台のはじまり。
サキ:天皇の住む内裏とは別の場所に、「本当の権力者の館」を作ったわけだ。
エミ:さらに白河院は北面武士を設置した。院の御所の北面の詰所に武士を仕えさせて、身辺の警固にあてたの。代表的存在は平正盛で、平清盛のおじいちゃんよ。
サキ:え! 平家はここから始まるの?
エミ:平氏が殿上人としての身分を獲得し、武家の地位を確保していく出発点がまさにこの年。摂関家が独占していた権力を、北面の武士という武力も使いながら白河上皇が「乗っ取った」といえるの。
サキ:院政と平家の両方が、1086年に同時にスタートしているんだ……。
東北 ── 後三年の役
エミ:さて京都から一転、東北へ飛ぶわよ。応徳3年冬、出羽国(秋田県)。陸奥守の源義家が、清原家衡の沼柵を攻めたけれど、大雪の中で敗退した。長年にわたる東北の大戦争、前九年の役、後三年の役のクライマックスよ。
サキ:八幡太郎義家、こっちは源氏のオリジンだ。だ。
エミ:このときの主役は、のちの平泉藤原氏にある清衡よ。清衡や家衡は複雑な家族関係だった。まず長兄で清原氏を継いだ真衡がいた。次兄は父も母も違う連れ子の清衡。そして長兄とは母が異なる家衡のややこしい三兄弟がいたの」
サキ:「北斗の拳かっ!ってくらいややこしい三兄弟」
エミ:「この三兄弟の争いに陸奥守の源義家が介入したわけ。応徳3年の冬に大敗北をした義家は翌年、弟の新羅三郎義光が来援すると清原氏の本拠の城「金沢柵」を陥落させた(長兄は早くに死亡)」
サキ:清原氏は滅亡して、生き残ったのは……
エミ:清衡ただ一人。というのも、清衡はまったく清原の血をひかない、安倍氏の血を引く連れ子だったの。この唯一の生存者がのちに藤原清衡を名乗り、奥州藤原氏の祖となる。
サキ:平泉の中尊寺金色堂を建てた人の運命も、この年に動いたんだ。
エミ:しかし朝廷はこの戦役を義家の「私闘」とみなして恩賞を与えなかった。でも義家は東国の武士たちに自腹で恩賞を配ったの。これが源氏の東国における勢望を決定的にした。
サキ:京都では北面武士(=平氏の台頭)、東北では後三年の役(=源氏の台頭)。武士の時代の二本の柱が、同じ1086年に立ったんだ。
エミ:「乗っ取り」でしょう? 貴族の時代から武士の時代への。
高野山 ── 真言宗のルネッサンス
エミ:ここで仏涅槃図に戻るわ。なぜこの絵が応徳3年に高野山で生まれたのか。
サキ:高野山でもなにか起きていたの?
エミ:高野山は正暦5年(994年)に大火で壇上伽藍のほとんどが焼失していたの。雷が多い地形だからね。そこから約90年かけて復興が進んでいくんだけど、応徳3年にいくつかの重要なことが同時に起きた。
サキ:90年もかかる。すごい山奥だしね。
エミ:まず高野山灌頂院が落慶した。性信入道親王の発願で建てられた、密教の重要な儀式を行う堂よ。
サキ:ほかには?
エミ:明算という僧がこの年に灌頂院供僧に任じられた。この人が高野山教学の主流、中院流の祖。「南嶺の密乗の再興は世、力を算に推す」って『元亨釈書』に書かれているぐらいの人物なの。
サキ:高野山の「再興の立役者」が、この年にポストに就いたんだ。
エミ:しかもね、同じ年に京都山科の真言宗の醍醐寺では勝覚が30歳で座主に就任。さらに肥後(熊本)出身の義範が東寺(京都)の三長者、そして天皇を護る護持僧に。
サキ:醍醐寺と東寺もどっちも真言宗の大きなお寺さんだよね。
エミ:そうね。義範は7年前に藤原賢子のために堀河天皇の誕生を祈祷した人なの。祈った皇子が天皇になった年に、みごとに護持僧に任じられた。
サキ:……地方出身とか若い僧侶が大抜擢だね。なんでだろう。
エミ:面白いのはここからよ。この三人――義範(1023~88年)・明算(1021~1106年)・勝覚(1058~1129年)は、全員が真言宗の「小野流」という同じ法脈上の人物なの。仁海(951~1046年)という90歳まで生きた”怪僧”が、京都伏見の小野曼荼羅寺(現・随心院)で開いた、言ってみれば「新興宗教」的な新しい法流が小野流なの。
サキ:随心院って小野小町の故郷で、華やかな装飾ときれいなお庭のある山科のお寺よね。醍醐寺のすぐそばだ。
エミ:義範→勝覚のラインで醍醐三流が生まれ、明算のラインで高野山中院流が生まれる。
サキ:同じ門下の兄弟弟子が、同時に真言宗の主要ポストを独占した……。
エミ:そうなの。真言宗には東寺系の広沢流が主流だったんだけど、小野流がのし上がって、広沢流と並ぶ主流の2派になったの。というしかも彼らは中央の名門出身じゃないの。仁海は和泉(大阪)明算は紀州(和歌山)、義範は肥後(熊本)。地方から出てきた僧たちが本家の高野山すら動かしている。30歳で醍醐寺のトップになる勝覚だけは貴族の子だけどね。
サキ:若い人を抜擢することも含めて一種の「乗っ取り」だよね。旧来の秩序の枠外から来た人たちが、中枢を塗り替える。
エミ:真言宗のルネッサンスといっていいと思う。その復興の頂点の年に、高野山に現存最古の仏涅槃図が生まれた。偶然じゃないと思うのよ。
全国規模の「乗っ取り」
エミ:まだあるのよ。応徳3年に起きたこと。
サキ:まだあるの!?
エミ:東寺の五重塔がこの年に再建落慶供養されているたわ。天喜3年(1055年)の落雷で焼失してから30年ぶり。つまり、高野山の金剛峰寺も京都の東寺も焼失し、既存の勢力が弱体化していたことが見て取れるのよ。ちなみに今の国宝の東寺五重塔は江戸時代の再建ね。
サキ:どこからお金を集めたんだろう。
エミ:面白い史料が残っているの。東寺の塔の燈油料と修理料として、丹波国の荘園「大山荘」が再建されたの。902年(延喜2)以降、たびたび出された荘園整理令で一度滅んだ荘園が、塔の復旧を理由に復活した。
サキ:荘園の再生ということは、地方でも再編が起きてたんだ。
エミ:肥後国では鹿子木荘が大宰大弐藤原実政に寄進されて、のちに真言宗仁和寺(広沢流)を本家とする重層的な荘園支配の教科書的事例になった。越前国では醍醐寺領の牛原荘が立荘された。紀伊では熊野那智大社への現存最古の寄進状がこの年。
サキ:京都、東北、高野山、東寺、丹波、肥後、越前、紀伊……日本中でなにかが起きてるじゃん。
エミ:比叡山でもこの年に円徳院が建てられて、梶井門跡――のちの三千院の発展の画期になっているわ。河内では聖武天皇の大仏造営の契機となった智識寺がこの年に倒壊。文学では源経信が『後拾遺和歌集』を批判した『難後拾遺』がこの年。
サキ:……古いものが壊れて、新しいものが全部この年に芽吹いてる。
エミ:国史大辞典の「藤原文化」の美術の項にはこう書いてあるの。「仏教美術で摂関政治期の遺作として年代の確実なものは少なく、平等院鳳凰堂の建築・仏像・扉絵、応徳三年作の仏涅槃図などをあげ得るにとどまり」。
サキ:……つまり摂関政治期の美術で年代がはっきりしているものは、宇治の鳳凰堂と高野山の仏涅槃図だけってこと?
エミ:そう。その仏涅槃図が、摂関政治から院政への転換のまさにその年に作られた。古い時代の最後の傑作であるとともに、新しい時代の最初の傑作でもあるのよ。
歴史はアンインストールから始まる
サキ:なんか……涅槃図って、お釈迦さまの「死」を描いた絵じゃん。でもこの年のことを知ると、ただの宗教画じゃなくなるんだね。
エミ:どういうこと?
サキ:1086年って、古い秩序が「涅槃に帰った」年でしょ。摂関政治が死に院政に、清原氏が死に奥州藤原氏が生まれ、死んだと思った荘園の旧い枠組みが生を得て、東寺の焼けた塔が30年越しに立、高野山でも90年前の大火からの復興が頂点に達した。全部が「死と再生」一緒なんだよ。古いOSがアンインストールされて同時に新しいOSがインストールされる。
エミ:…………サキちゃん。
サキ:え、なに。
エミ:それ、すごいこと言ったわよ今。
サキ:(え、そう?)
エミ:涅槃って、仏教では単なる「死」じゃないの。煩悩の火が消えた境地、究極の安らぎ。お釈迦さまの入滅は悲しみの場面だけど、同時に解脱の完成でもある。終わりと始まりが同居している。
サキ:……1086年そのものが「涅槃」みたいだってこと?
エミ:そう読みたくなるのよ。摂関政治の終わり、院政の始まり。高野山の復興の成就。古い時代が静かに横たわり、新しい時代の弟子たちがその周りで嘆き、そして歩き出す。
サキ:……明日は4月8日、花まつり。お釈迦さまの誕生日。涅槃の翌日に、また生まれるんだよね。
エミ:歴史もそうよ。終わったと思った場所から、いつも何かが始まる。アンインストールから歴史は始まるの。



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