憲法だけど憲法じゃない!推古12年(604年)4月3日 聖徳太子が十七条憲法を作る

推古12年4月3日(604年5月6日) 聖徳太子が十七条憲法を作る。
十七条憲法は日本初の成文法。日本書紀では「皇太子、みずかはじめて憲法十七条を作りたまふ」とあります。
鎌倉時代(1236年)に書写された十七条憲法(大阪・四天王寺蔵)が重要文化財。法隆寺蔵の1285年に彫刻された版木も重要文化財。平安時代に聖徳太子信仰が高まり、法隆寺と四天王寺がそれぞれ「本家・元祖 聖徳太子の寺」のアピールを強めていきました。
11世紀に成立した法隆寺系の聖徳太子の歴史書『上宮じょうぐう聖徳法王帝説』では、推古天皇13年(605)7月と、成立期には異説もあります。

(4月の昼下がり)

サキ:「エミちゃん、今日は4月3日だね。日本史では何の日?」

エミ:「今日はねぇ、推古すいこ12年4月3日——西暦だと604年の5月6日。聖徳太子が十七条憲法じゅうしちじょうのけんぽうを制定した日よ」

サキ:「おお、十七条憲法! ”を以てたっとしとす”ってやつだよね。学校で習ったなぁ」

エミ:「そうそう。日本最古の成文法とも言われていて、日本の政治思想の原点みたいな文章なの」

サキ:「”憲法”っていうくらいだから、今の日本国憲法みたいなやつなのかな?」

エミ:「あ、そこ! 実はそこが最大のトラップなのよ」

第1章 「憲法」なのに憲法じゃない?

エミ:「まず大事なポイントから言うわね。十七条憲法の”憲法”は、明治以降に西洋から輸入した近代的な”constitution”の訳語とは、まったく別物なの」

サキ:「え、そうなの? じゃあ何なの?」

エミ:「『日本書紀にほんしょき』では”憲法いつくしきのり“って読ませているの。”いつくしきのり”——つまり”尊ぶべき規範”っていう意味ね。国史大辞典の表現を借りると、”古代専制君主の支配層への訓示”に近いものだったのよ」

サキ:「訓示……ってことは、国民の権利を保障するとかじゃなくて、役人に向けた”こうあるべし”っていう……」

エミ:「そう! イメージとしては”社長が役員に出した社内行動指針”って感じが近いかもしれないわ。憲法けんぽうけんは”おきて”。社訓をけんに——なんちゃって」

サキ:「……うまくないよ、エミちゃん」

エミ:「(スルーして)でもね、中身がすごいのよ。仏教、儒教、法家、道家——当時の大陸の思想をまんべんなく取り込んでいて、しかもそれを独自の政治ビジョンとして編み上げているの」

サキ:「1400年前の日本で、そんなミックスができたっていうのがすごいよね」

第2章 全17条を貫く三つの柱

エミ:「十七条全部を紹介すると長くなっちゃうから、大きな柱で整理するわね。ざっくり三本柱よ」

サキ:「(エミちゃん、目が輝いてきた……長くなるぞこれ)」

エミ:「まず第一の柱は仏教思想。第二条に”あつく三宝を敬え”とあって、仏法僧の三宝を”四生の終帰、万の国の極宗”——つまりあらゆる生命の究極の拠りどころだって宣言しているのよ」

サキ:「国のトップが公式に”仏教が一番大事”って言ったってこと?」

エミ:「そうなの。しかも第十条がまたすごくてね。”我必ず聖に非ず、彼必ず愚に非ず、共にこれ凡夫のみ”——自分が必ず正しいわけじゃない、相手が必ず間違ってるわけじゃない、みんな凡人なんだから——って」

サキ:「えっ、それ1400年前の政治文書に書いてあるの? なんか、現代の多様性議論に通じるものがあるような……」

エミ:「でしょう? 国史大辞典でも”政治的訓示の域を超えた深い宗教的諦観たいかんの吐露”と評されているわ」

エミ:「第二の柱は中央集権の構想。第三条では”みことのりを承けては必ず謹め”——天皇の命令には必ず従え。第十二条では”国司・国造は百姓を勝手に搾取してはならない、民はみな天皇の民だ”って言っているの」

サキ:「豪族がバラバラに治めてた時代に、”全部、天皇の直接統治ですよ”って宣言したんだ」

エミ:「まさに。もしこれが本当に聖徳太子の時代の作なら、645年の大化改新たいかのかいしんに先立つ中央集権思想の先駆けってことになるわ」

サキ:「”もし本当に”……?」

エミ:「——それは後で話すわね。そして第三の柱は法家と儒教の統治思想。第十一条の”賞罰を明らかにせよ”は法家的だし、第五条の”民の訴えをよく聴け”や第十六条の”農繁期に民を使役するな”は儒教の仁政思想よ」

サキ:「仏教で精神を、儒教で統治の理想を、法家で実務を——って感じ?」

エミ:「サキちゃん、まとめるの上手いわね! そう、まさにそういう構造なの」

エミのメモ📝

十七条憲法の思想的な特徴として注目されるのが、第一条の「和を以て貴しと為す」です。直接の出典は儒教古典(『論語』の有子の言葉)ですが、研究者の中には「むしろ仏教思想を根底に置いて解すべき」とする説もあります。また第十七条の「独断をやめ、必ず衆と論ぜよ」は、第三条の「詔には従え」との間に一見矛盾がありますが、古代日本の「八百万の神の神集い」に象徴される衆議の伝統を反映しているとも考えられています。

第3章 聖徳太子は本当に書いたのか?

サキ:「さっきの”もし本当に”って、まさか偽作説があるの?」

エミ:「鋭い。実は江戸時代からくり返し疑われてきているのよ。”聖徳太子の作ではないのでは?”という学説がね」

サキ:「えー! そんな昔から!?」

エミ:「成立時期ひとつとっても揺れがあるの。『日本書紀』では推古天皇12年(604年)の4月って書いてあるんだけど、11世紀に法隆寺系でまとめられた『上宮聖徳法王帝説じょうぐうしょうとくほうおうていせつ』では推古天皇13年(605年)の7月って記録があるのよ」

サキ:「1年以上もずれてるじゃん……」

エミ:「そうなの。国史大辞典でも”聖徳太子の事蹟全体の史実としての確実性とのかかわりにおいて、今後なお研究の必要があろう”って、わりと慎重な書き方をしているわ」

サキ:「でもさ、仮に太子本人の筆じゃなかったとしても、1400年前にあの内容の文書がまとめられたこと自体がすごいよね」

エミ:「そうなのよ。実際、国史大辞典ではインドのアショーカ王の石刻詔勅や、チベットのソンツェン・ガンポ王の十六条法と並べて比較しているの。”強大な王朝確立期に、部族対立時代には見られなかった普遍的な指導理念が現れる”という、世界思想史に共通する現象のひとつだって」

サキ:「へぇ〜! 日本史の枠を超えて、世界の”国づくりの思想”のひとつとして見られるんだ」

エミ:「しかも仏教と政治の関わり方が独特なのよ。後の時代の”鎮護国家ちんごこっか思想”——仏教の力で国を守るっていう発想——とは違って、十七条憲法は”為政者自身の内省の道具”として仏教を位置づけている。そこが他にない魅力なの」

サキ:「権力のための仏教じゃなくて、権力者が自分を戒めるための仏教……。なんか、現代のマインドフルネス経営みたいだね」

エミ:「あはは、言い得て妙ね!」

第4章 ”本家争い”——法隆寺 vs 四天王寺

サキ:「ところでさ、十七条憲法の現物って残ってるの?」

エミ:「太子の自筆原本は残っていないわ。でも、重要文化財に指定されている伝本が二つあるの」

サキ:「二つも!」

エミ:「ひとつは大阪の四天王寺してんのうじが所蔵する、鎌倉時代の1236年に書写されたもの。もうひとつは奈良の法隆寺ほうりゅうじが持っている1285年に彫刻された版木——つまり印刷用の木版ね」

サキ:「どっちも鎌倉時代なんだ」

エミ:「そう。そしてこの二つのお寺の関係が面白いの。平安時代に聖徳太子信仰がどんどん盛り上がっていくんだけど、法隆寺と四天王寺がそれぞれ”ウチこそ本家の聖徳太子のお寺です!”ってアピール合戦を繰り広げたのよ」

サキ:「”元祖・本家”争い!? ラーメン屋さんみたいじゃん!」

エミ:「まさにそれよ。”元祖聖徳太子の寺・四天王寺”と”本家聖徳太子の寺・法隆寺”みたいな構図ね。だからこそ、それぞれが十七条憲法の写本や版木を所蔵して”ウチにはこんな宝物がある!”と権威づけをしていたわけ」

サキ:「信仰と権威と観光と……いつの時代もブランディングって大事なんだねぇ」

推古30年(622年)2月22日 聖徳太子(49歳)斑鳩宮で死去

治暦5年(1069年)2月5日 仏師円快、絵師秦致貞、法隆寺の聖徳太子坐像(伝七歳像)を造る

聖徳太子「いつもきれいでいろ」十七条憲法「和を以って尊しとなす」以降が関白宣言な件

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