天明4年2月23日(1784年)「漢委奴国王」金印が博多湾の志賀島で発見

天明4年2月23日(1784年4月12日)、「漢委奴国王」金印が博多湾の志賀島で発見されました。

後漢書東夷伝には、西暦57年、倭の奴の国王が後漢に朝貢し、 光武帝から印綬を授けられるという記載があり、この印綬がこの金印のことだろうと考えられています。国宝。

奴国は博多湾と見られていますが、倭の奴と読むよりも、委奴(イト)と発音するという説があります。その説だと、博多湾の西の糸島半島(糸島市)の「伊都国」のことを意味し、西暦57年頃、日本では弥生時代に大きな遺跡「志登支石墓群」(国史跡)があり、矛盾しません。

志登支石墓群(福岡県糸島市)

江戸時代に農民が農作業をしていて偶然に見つかったという経緯は極めて怪しい話です。そもそも純金(24金)で極めて柔らかいにも関わらず、農作業をしたはずなのにほぼ無傷なこと、現代になって発見地周辺を発掘調査をしたが埋納遺構らしきものが全く見つからなかったことなどから、志賀島で発見されたことを疑う見方は根強くあります。

志賀島出土に関わった疑惑を持たれている人物が、江戸時代の福岡藩の儒学者、亀井南冥(かめいなんめい)(1743~1814年)です。筑前国早良郡姪浜(福岡市西区姪浜町)に、町医者の子として生まれました。中国の詩(文人)に優れ、京都や大坂に「留学」し、22歳に、福岡の唐人町で、父とともに病院を開きました。そのかたわらで、当時の日本で大ブームを巻き起こしていた中国趣味(文人)の「蜚英館(ひえいかん)」という塾を起こしました。それが福岡藩主の目にとまり、藩の御用医師に抜擢。さらに1784年に、藩が藩校を2つ新設することになり、ブームの文人系の「西学」(甘棠館)の総裁(祭酒)には亀井が就任し、もう一つの江戸伝統の朱子学系の「東学修猷館」とライバル関係になります。

文人趣味とは、江戸時代当時の中国(清や明の文化である朱子学)ではなく、紀元前の春秋戦国時代の孔子であったり、4世紀の東晋の王羲之であったりと、古の中国の文化を楽しむ日本版ルネサンス運動でした。そこには、現代の考古学や科学的な視線はなく、ピラミッドでミイラを発掘するような古代浪漫がベースでした。そこに「現れた」のが、まさにこの文献資料が一切ない時代に、「福岡藩」と古代中国を結びつける「金印」だったのです。

亀井は、中国の詩を作るのに長けており、それが評価された人です。つまり、現代の感覚では、フィクションを作る名人だったのです。その彼が金印を、ドラマチックに詩的に紹介したのは、藩校が出来たその年である1784年です。亀井は金印は漢書にある印綬であるとの鑑定結果として『金印弁』を出版しました。この本は全国でも話題になり、金印の重要性を知った福岡藩がこれを収めています。これで、東学と西学との藩校同士の争いは、人気という点では、一気に西学、亀井側に傾いたことでしょう。

しかし、幕府も、江戸の身分秩序を無視して広がる「文人ネットワーク」に危機感を抱いており、寛政の改革の一環で、寛政2年(1790年)に「寛政異学の禁」を出し、朱子学以外の学問を禁じます。つまりルネサンスな儒教を公的な場では禁じられたのです。寛政4年(1792年)、亀井南冥は蟄居謹慎処分を受けます。文化11年(1814年)には、林の中で焼死という謎の死を遂げます。

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