足利義昭は「愚かな将軍」じゃなかった?信長包囲網の外交力がヤバい! 元亀4年(1573年)4月4日 織田信長が二条御所で将軍足利義昭を取り囲む

元亀4年4月4日(1573年5月5日) 織田信長が二条御所(旧・二条城)で将軍足利義昭を取り囲み、上京に放火する。(兼見卿記)1573年は7月28日に改元して天正元年。

サキ:「エミちゃん、今日は4月4日! 何があった日?」

エミ:「元亀げんき4年4月4日——444が並ぶ日よ。西暦だと1573年の5月5日ね。織田信長が京都の二条御所にじょうごしょで将軍足利義昭あしかがよしあきを取り囲んで、上京かみぎょうに火を放った日よ」

サキ:「えっ、将軍を囲んで放火!? 信長、やること激しすぎない……?」

エミ:「ちなみにこの年は7月28日に改元して天正てんしょう元年になるの。室町幕府崩壊の年としてはそっちの方が有名ね」

サキ:「天正年間って信長が天下人になった時代だよね。足利義昭って、信長に担がれて将軍になったのに反乱した人だよね。なんか”お飾り将軍が身の程知らずに反旗を翻した”みたいなイメージあるけど……」

エミ:「そう! まさにそのイメージを、今日はひっくり返してみたいの」

第1章 坊さんから将軍へ——義昭の「ゼロからの再起」

エミ:「まず義昭のバックグラウンドを押さえておくわね。彼は12代将軍足利義晴あしかがよしはるの次男。母は名門・近衛尚通このえひさみちの娘。1537年生まれよ」

サキ:「次男ってことは、最初から将軍になる予定じゃなかったんだ」

エミ:「そう。将軍家の次男坊に用意されたコースは”出家”よ。義昭は幼いころに近衛家の猶子ゆうし——養子みたいなものね——になって、奈良の興福寺こうふくじ一乗院いちじょういんに入ったの。僧名は覚慶かくけい

サキ:「お坊さんだったんだ!」

エミ:「それも門跡クラスよ。権少僧都ごんのしょうそうずまで上がってる。このまま高僧として一生を終えるはずだったのに——1565年、事件が起きるの」

サキ:「何が?」

エミ:「兄の13代将軍義輝よしてるが、松永久秀まつながひさひでらに暗殺されたのよ」

サキ:「!!」

エミ:「義昭も一乗院に幽閉されたんだけど、なんと脱出に成功する。近江の和田惟政わだこれまさのもとに逃れて、すぐに上杉輝虎うえすぎてるとら——のちの謙信ね——に手紙を出して”幕府を再興する”と宣言しているの」

サキ:「兄を殺されて幽閉されて、脱出してすぐ外交活動……。けっこうタフじゃん」

エミ:「でしょう? ここで注目してほしいのは、義昭がまだ還俗げんぞくすらしていない段階で、もう”誰に声をかければ味方になるか”を計算しているところなの。翌年に還俗して義秋よしあきと名乗り、若狭から越前へと移動しながら各地の有力者との交渉を続けるのよ」

サキ:「坊さんがいきなり政治家モードに切り替えたってこと?」

エミ:「むしろ”門跡”という立場で培った人脈と交渉力がそのまま活きたのかもしれないわ。一乗院は単なるお寺じゃなく、大和国の政治にも深く関わる組織だったから」

エミのメモ📝

義昭は越前に滞在中、朝倉義景の一乗谷城で元服して「義昭」と改名しています。当初は朝倉義景に上洛の援助を期待していましたが、義景が動かなかったため、最終的に尾張・美濃を制した織田信長と手を組む道を選びました。1568年7月に美濃の岐阜へ赴き、同年9月に信長とともに入京しています。

第2章 信長包囲網——「お飾り将軍」の驚くべき外交ネットワーク

サキ:「でもさ、信長のおかげで将軍になれたのに、なんで反旗を翻したの?」

エミ:「ここがポイントなの。義昭は信長に”担がれた”のは事実だけど、義昭自身にも”幕府を再興する”という明確な目的があったのよ。ところが信長は将軍を立てた直後から政治の実権を自分で握り始めた」

サキ:「あちゃー」

エミ:「就任翌年の1569年にはもう”殿中でんちゅうおきて“——将軍の政治活動を制限するルール——を突きつけてくるし、1572年には”異見十七条いけんじゅうしちじょう“を呈出して”あなたのここがダメです”と列挙してきたの」

サキ:「上司に改善点かいぜんてんリスト17条叩きつけられるの、精神的にキツすぎない……?」

エミ:「(苦笑)昨日の聖徳太子の十七条憲法も17条だったし、”17条”って日本史好きだわよね……。でもね、ここからが義昭の真骨頂なの。義昭は”武力で信長に勝てない”ことは分かっていたのよ。だから外交で包囲する道を選んだ」

サキ:「信長包囲網!」

エミ:「そう。義昭が組んだネットワークを見てほしいの——」

エミ:「まず東から。甲斐の武田信玄たけだしんげん。元亀3年(1572年)5月に盟約を固くしている。義昭は”将軍からの御内書”という形で各地の大名に働きかけたのよ」

サキ:「将軍の肩書きを外交カードに使ったんだ」

エミ:「まさにそう。北に上杉謙信うえすぎけんしん。義昭は謙信に”信玄と講和せよ”と命じているの。信玄と謙信は長年争っていたけど、義昭は”二人とも矛先を信長に向けろ”と調整しようとしたのよ」

サキ:「武田と上杉の仲介……!? それ、めちゃくちゃ高度な外交じゃない?」

エミ:「(早口で)でしょう!? さらに西。石山本願寺いしやまほんがんじ顕如けんにょ。一向宗の全国ネットワークを持つ宗教勢力よ。そして北近江の浅井長政あざいながまさ、越前の朝倉義景あさくらよしかげ。比叡山延暦寺えんりゃくじの僧兵まで加わって——」

サキ:「(エミちゃんの早口来た……)」

エミ:「——東の武田、北の上杉、西の本願寺、近江の浅井・朝倉、京の延暦寺。これだけの勢力を”将軍”の権威一本で繋ごうとしたの。これが信長包囲網よ」

サキ:「すごい……。”お飾り”って言われてるけど、むしろ外交官としてはめちゃくちゃ有能じゃん」

エミ:「そうなのよ。義昭の弱点は”自分の直轄軍がほとんどない”こと。でも逆に言えば、軍事力なしで信長を苦境に追い込んだこと自体が、義昭の外交力の証明だと思うの」

エミのメモ📝

信長包囲網の効果は決して小さくありませんでした。元亀元年(1570年)、信長が越前の朝倉攻めを開始したのをきっかけに包囲網は具体化。信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破ったものの、摂津では三好勢や一向宗徒と戦わねばならず、その間に浅井・朝倉が再び近江に進出するなど、まさに多方面作戦を強いられました。信長が翌年(1571年)延暦寺を焼き討ちにしたのも、包囲網の一角を崩す必要に迫られてのことです。

第3章 元亀4年4月4日——炎上する上京

サキ:「それで、今日の日付に繋がるわけだ」

エミ:「そう。元亀4年——のちの天正元年に入ると、義昭はついに自ら挙兵するの。4月、二条御所に立てこもった」

サキ:「でもさ、義昭には自分の軍隊がほとんどないんだよね。挙兵して大丈夫だったの?」

エミ:「大丈夫じゃなかった、と言うべきかもしれないわね。義昭の計算では、包囲網の各勢力が同時に動けば信長は対処しきれないはずだった。でも——」

サキ:「でも?」

エミ:「実は、包囲網の最大の切り札だった武田信玄が、この直前——元亀4年4月12日に病死してしまうのよ」

サキ:「ええっ! 4月4日に義昭が挙兵して、その8日後に信玄が……」

エミ:「正確に言うと、信玄の死が公になるのはもう少し後なんだけど、武田軍が西上作戦を中止して甲斐に撤退し始めるのがこの時期。包囲網の東の壁が崩れたのよ」

サキ:「信長、運も持ってるなぁ……」

エミ:「信長は4月4日に二条御所を包囲して、上京に火を放った。これは『兼見卿記かねみきょうき』——公家の吉田兼見よしだかねみの日記に記録されているわ。京都の町が焼かれたの」

サキ:「将軍を囲んで市街地に放火……。一般市民にとっては最悪の巻き添えだよね」

エミ:「このあと一度は講和するんだけど、義昭は7月1日に山城国の槇島城まきしまじょうで再度挙兵して——7月18日にはもう降伏。ここで室町幕府は15代、238年の歴史に幕を下ろすの」

サキ:「7月1日に挙兵して18日に降伏って……2週間ちょっとか。切ないね」

第4章 義昭はなぜ「愚将」のレッテルを貼られたのか

サキ:「ここまで聞くと、義昭って”愚かな将軍”っていうよりは”武力なき外交家が最後の賭けに負けた”って感じに聞こえるんだけど」

エミ:「いい視点ね、サキちゃん。義昭が”愚将”扱いされがちなのは、いくつか理由があると思うの」

エミ:「まず、信長側の史料が多く残っていて、信長視点で語られがちということ。信長の”異見十七条”なんかは”信長が義昭をいさめた立派な文書”として読まれるけど、裏を返せば”信長が将軍の権限を奪った記録”とも読めるわ」

サキ:「視点を変えると見え方が変わるんだ……」

エミ:「それに、最終的に負けたから”無謀だった”と言われるけど、信玄の死がなければ包囲網はもっと信長を追い詰めていた可能性があるのよ。義昭の外交構想自体は、決して非合理なものじゃなかった」

サキ:「”結果から逆算して愚かだった”って決めつけるのは、ちょっとフェアじゃないよね。システム設計でも”結果論で叩く”のは一番やっちゃいけないことだもん」

エミ:「さすがシステムエンジニア(笑)。でも本当にそうなのよ。それにね、義昭は追放された後も将軍の地位を捨てなかったの。ともの浦(広島県)に移って、”鞆幕府ともばくふ“なんて呼ばれることもある亡命政権を維持したのよ。1588年に将軍職を正式に辞すまで15年間、名目上は将軍だった」

サキ:「15年も!? しぶとい……というか、最後まで”将軍”にこだわり続けたんだ」

エミ:「そして1597年に61歳で亡くなるまで生き延びた。信長も秀吉も先に死んでいるのよ」

サキ:「え、信長より長生きしたの!? それはちょっと見方変わるなぁ」

エミ:「”最後の将軍”って聞くと悲劇的だけど、義昭の人生全体を見ると、坊さんから将軍になり、追放されてもしぶとく生き残り、天下人二人を見送った——なかなかタフな生涯よ」

エミのメモ📝

足利義昭の評価は近年見直しが進んでいます。従来は「信長に担がれただけの傀儡将軍」というイメージが強かったのですが、義昭が各地の大名に送った御内書の分析などから、独自の外交戦略を持った政治家としての側面が注目されるようになりました。信長包囲網は「過信による無謀な反乱」ではなく、「軍事力を持たない将軍が、権威と外交だけで当時最強の戦国大名を追い詰めようとした壮大な試み」として再評価する研究者もいます。

🎵 プレイリスト会議

(カフェでアイスティーを飲みながら)

サキ:「今日のプレイリストいこう! 足利義昭テーマで」

エミ:「私はLinked Horizonの『紅蓮ぐれん弓矢ゆみや』でいくわ」

サキ:「おお、進撃の巨人! なんで?」

エミ:「巨大な壁に囲まれた世界から反撃する、っていう構図が、信長という圧倒的な力に包囲網で対抗しようとした義昭に重なるの。”駆逐くちくしてやる”のは義昭の方なのよ——少なくとも本人はそのつもりだった」

サキ:「なるほど(笑)。じゃあ私はAdoの『うっせぇわ』!」

エミ:「ええっ、なんでそれ?」

サキ:「だって義昭、信長に”お前のここがダメ”リストを17条も突きつけられたんでしょ? そりゃ”うっせぇわ”って言いたくなるじゃん!」

エミ:「あはは! 確かに義昭の心境としてはまさにそれかもしれない……!」

サキ:「あとね、ヨルシカの『はな亡霊ぼうれい』も入れたい」

エミ:「おっ、なんで?」

サキ:「追放されても15年間”将軍”でい続けたっていう義昭のしぶとさ……っていうか、失われたものへの執着って、なんか”もう関係ないのに忘れられない”っていう歌の空気に合ってるなって」

エミ:「”花に亡霊”で足利幕府への亡霊的な執念を表現するの、サキちゃんいいセンスしてるわ……」

エミ:「じゃあ私ももう1曲。Mrs. GREEN APPLEの『ダンスホール』を入れさせて」

サキ:「ダンスホール? なんで?」

エミ:「義昭って、武田も上杉も本願寺も浅井も朝倉も——全然立場の違う人たちを”反信長”の一点で踊らせようとしたわけじゃない。それぞれ利害もバラバラなのに、将軍の権威でひとつのダンスフロアに集めた。それって”ダンスホール”よね」

サキ:「あー、それいい! まとめるね」

  1. Linked Horizon「紅蓮の弓矢」―― 圧倒的な力への反撃を試みた義昭の気概
  2. Ado「うっせぇわ」―― “異見十七条”を突きつけられた将軍の心の叫び
  3. ヨルシカ「花に亡霊」―― 失われた幕府に15年間こだわり続けた執念
  4. Mrs. GREEN APPLE「ダンスホール」―― バラバラの勢力を一つの舞台に集めた外交力

サキ:「義昭、結局”負けた側”だから低く見られがちだけど、外交力だけなら戦国大名に引けを取らないよね」

エミ:「”勝者の歴史”だけで見ちゃうと大事なものを見落とすのよね。義昭は武力ゼロでも信長を苦しめた。それって”弱さ”の証明じゃなくて、別の種類の”強さ”の証明だと思うの」

サキ:「”武力なき者の戦い方”かぁ……。システム屋的には”リソースが限られてるときほど設計力が試される”って話だね」

エミ:「(笑)それ、義昭が聞いたら喜ぶかもしれないわね」

サキ:「明日も楽しみにしてるよ、エミちゃん!」

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