国宝「渓陰小築図」(京都・金地院)は新オフィス開設祝いの胡蝶蘭?

国宝「渓陰小築図」応永20年(1413)京都・金地院蔵が2023年5月9日〜6月4日、東京国立博物館の国宝室で展示されています。

室町時代前期の禅宗掛軸の典型的な書画として重要です。
なぜなんのために、なにを描き、書いたかの、が分かります。
・ある僧侶のオフィス新築のお祝いのため
・絵を描いた画家は不明(作家性がない)
・その絵を見て仲間の僧侶たちが寄せた漢詩がメイン(作家性あり)
・絵は写実ではなく空想の理想を描いたイメージ図

完全な虚構

南禅寺の僧、子璞(しはく)が新しい書斎の建物を新築したお祝いのために、「友人」が子璞の心の中の書斎を描いたとされています。実際の書斎の位置は京都の市中にあり、このような静寂な自然の中とは真反対の環境でした。

描いたのは、おそらく南禅寺の僧侶の中で絵のうまい人物で、絵を描くプロフェッショナルとしての役目を担った僧侶でしょう。
これが作られたのは15世紀前半で、雪舟の少し前の世代。東福寺展で脚光を浴びた画僧の吉山明兆(1352〜1431)の時代です。明兆は、普通の僧侶として東福寺の総務課長のような立場を本職としながら、ある意味で片手間で絵を描いていた(企業の社内報にイラストを無報酬で絵のうまい社員が描くようなイメージ)のが、あまりに絵がうまいので、途中から作家性(明兆というブランド)が重視されるようになったのです。

鎌倉・室町時代の日本の禅画は、禅宗がそもそも中国(南宋や元)での最先端のカルチャーでありサイエンスでもありましたので、まずは中国からの直輸入されたものが最良との認識であったという点が重要です。

そのため、室町前期には、中国の絵画を完コピできることが重視され、日本人の画家の作家性を出すことはむしろマイナスだったわけです。

一方で、このときにも、日本人でも作家性が重視されたのは、漢詩を書いた高僧です。今では、書画のうち書の部分(賛)を省いてトリミングされてしまいますが(写真の博物館の展示案内も)、本当の主役はこちらなのです。

この国宝でも、太白真玄が序文、大岳周崇ら6人の高僧が賛を寄せていることが、当時としては大切な要素だったのです。

そうすると、絵の部分が写実ではなく、全くの虚構であるのも、意味が通じるでしょう。この虚構の心の中の風景とは、はるか遠く、禅宗の本場である中国の山水画(そもそも中国の山水画も写実ではなく、理想的な心象風景を描いているのですが)を完コピしたものであることが想像できるでしょう。

つまり、現代に置き換えれば、騒がしい都会の中に出来た新オフィスの開設を祝って、関係会社の社長名で贈られる胡蝶蘭のようなものなのです。

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