慶応4年3月28日(1868年4月20日) 「神仏判然令」で神仏混淆を禁じる。これ以降、各地で廃仏毀釈運動が起き、寺院の経営が厳しくなり、廃寺となったり、仏像などが売却されるなどする。
なお、慶應4年は9月8日に「明治」に改元して明治元年となる。
廃仏毀釈は地域によって濃淡があり、鹿児島や岐阜などは苛烈な廃仏毀釈運動が行われた一方で、最近は奈良についてはそれほどではなかったという考えも提示されている。
https://t.co/1rd9eu2Y51https://t.co/1rd9eu2Y51— 西山厚 (@shinsojisei) February 22, 2023
明治になって興福寺は廃仏毀釈でたいへんだったと言われるが、それは事実ではない。
元奈良国立博物館学芸部長で仏教美術学者の西山厚さんの2023年のXポストだが、そのコラムを読むと、奈良の興福寺では、一斉に高僧たちが隣の春日大社に移り、興福寺自体は廃寺となったらしい。廃寺になっているので、十分に「たいへんだった」とも感じるが、自主的な退去なので、破壊的な仏像破壊などからすると、比較的穏当だったということなのだろうか。
同じく奈良の聖林寺の十一面観音(国宝)も、”廃仏毀釈”で三輪山(大神神社)の境内寺院だった大御輪寺から聖林寺に移ったことが知られているが、2021年の特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」で示されたのは、かつて言われていたような「野ざらしで捨てられた状態の仏さまを聖林寺側が拾ってきた」ということではなく、きちんとした移管がされたものだったということが明らかにされていて、「へえ」となった。奈良では、「廃仏」はあったけど、「毀釈」まではしなかったという感じだったのだろうか。



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