大倉集古館 明治維新で官軍の兵站担当としてのし上がった政商大倉喜八郎のコレクション 「合縁奇縁」展

大倉集古館という変わった名前の美術館が虎ノ門のホテルオークラの敷地内にあります。
建てられた順では、ホテルオークラが先ではなく、大倉喜八郎の広大な邸宅内に美術館である大倉集古館がまずあり、戦後になってから、ホテルが建てられるために邸宅の土地が売られた、という順番になります。

この場所は、江戸見坂という江戸の街を見下ろせた急な坂の上にあり、今でもかなりの急勾配です。

もともとは川越藩の屋敷でしたが、明治維新後に、政商として莫大な資本家となった大倉喜八郎が購入して邸宅を建てました。

斜面を利用した大倉邸の一部に、自分のコレクションを展示する大倉集古館を設けたのです。

大倉集古館で買ったポストカード2枚。上の絵は大倉邸の全体図、左側の何層かの建物が大倉集古館。下の絵は大倉集古館の内部

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合縁奇縁展

大倉集古館で開かれている企画展「合縁奇縁〜大倉集古館の多彩な工芸品〜」を見てきました。その感想です。

大倉喜八郎がのし上がった力の源泉から、関東大震災の悲劇まで、歴史的にとても興味深い内容でした。美術的には若干、物足りないかもしれません。

まず集古館という名前ですが、実は最初は「美術館」という部門の名前でしたが、工芸品も収蔵するようになったために、集古館との名前に変わったそうです。今の感覚だと、美術に工芸も含まれますが、明治の当時は、美術という概念自体が新しく、美術と工芸は分離して考えられていて、それの上位概念として、集古というのがあったようです。「博物」も明治にできた概念です。「美」をめぐる価値観を近代化したうえで再構築する際に、美の概念が細分化され、結局、「美術館」と「博物館」という言葉だけが生き残ったということでしょうか。そう考えると、大倉集古館や近くにある泉屋博古館東京は、生きた化石的な貴重な名前とも言えそうです。そこが美術館かと言われると、現代人にはわかりにくいですけど。

武器商人として

大倉喜八郎(1837-1928)は、ウィキペディアでは「武器商人」と、人物紹介の枕詞されています。けっこう、厳し目に書かれています。国史大辞典でも、「日本における代表的な「死の商人」と見なされた」と記載しているくらいです。 江戸時代に新潟の新発田藩の裕福な商人の家に生まれました。しかし、16歳くらいで、両親を立て続けに亡くし、江戸に丁稚奉公に出ます(出されます)。最初の独立は丁稚奉公先と同じ乾物屋。優秀だったので養子にと言われますが、独立を選んだそうです。かなり起業家精神が強かったのでしょうね。 乾物屋はうまくいったにも関わらず、黒船来航で衝撃を受けて、店を閉めて、横浜で鉄砲屋になります。これが大当たり。 戊辰戦争では、官軍側につき、東北戦争において、官軍のトップ(奥羽征討総督)の有栖川宮熾仁親王からの依頼(御用達)で軍事物資の調達を一任されました。つまり官軍の兵站担当だったわけです。

三菱の岩崎弥太郎は土佐藩という勝馬にのったとも言えますが、大倉は新潟の新発田藩出身の町人ですから、横浜にうごめくあまたの商人に比べて抜きん出て優秀だったのでしょうね。もちろん、この商売は大成功します。明治の大富豪にかけのぼったわけです。

展示では、この有栖川宮との関係の深さを物語るものが並んでいました。

明治11年の有栖川宮熾仁親王が揮毫した一行書や、有栖川宮熾仁親王の弟で宮家を継いだ威仁親王から大倉喜八郎の息子(喜七郎、二代目)に贈られた刀などです。

実際には、戊辰戦争や明治維新のときに、商人に過ぎなかった大倉喜八郎と有栖川宮の交流は、ほとんど絶無だったことでしょう。しかし、わずか十年ほどで、揮毫をもらえるくらいに地位を高めたのと考えると明治維新の”革命”ぶりに改めて驚きます。皇族以外は、完全実力主義ですものね。もっとも、それで廃仏毀釈のような壮絶なこともやってしまう面もありましたが。

ともかく大倉家の次(2代目喜七郎)の世代は、有栖川宮と一緒に車のドライブに行く「友達付き合い」までできるようになりました。

大倉家は武器商人というルーツなので、明治以降に軍刀の生産もしていました。展示の刀には「敵国降伏」「皇紀二千六百」と銘があったりと、戦争に直結した負の歴史とも言えないことのないものもあり、ブームの日本刀のように、無邪気にはしゃいで鑑賞することはできませんが、こういうものを実見できる機会は大切だと思いました。

また、明治以降の日本の海外進出に、大倉家は「活躍」しており、タイの王国とは、これも2代目喜七郎がイギリスのケンブリッジ大学に留学しているときの同級生だったようです。タイ王家からもらった銀器は美しかったですね。銀はさびて黒くなるので、こうした輝きを保っている銀の美術工芸品を見る機会も、大変に貴重と感じました。

台湾征討、日清・日露戦争でも、日本軍の軍需品の調達を担当していましたが、モンゴルや清朝滅亡後の満州にもビジネス的にも進出していて投資していたようで、清朝の王族のものとみられる龍が模様されたパオや、これまで実物を見たことがないモンゴル系の武具なども興味深かったです。

関東大震災で全焼

大倉集古館は、東洋一の中国漆器のコレクションを誇ったそうです。ところが、大正時代の関東大震災で、上のポストカードにある大倉邸は全焼して、そのコレクションも焼けてしまいました。

東洋一の中国漆器コレクションも8点を除き焼失。「東洋一」と、現実にいま、展示されてる中国漆器のラインナップとは、かなりギャップがありました。震災の恐ろしさを実感します。トーハクの東京国立博物館のすべて展の第2部で、関東大震災のときに展示していてひっくり返ってバラバラに割れてしまった青磁(修復すみ)が出ていて、震災怖いなと思ったばかりですが、燃えてしまうダメージはそれ以上ですね。最近聞きませんが、「火の用心」ですね。

震災後に建て直された現在の建物

大倉集古館は大正6年(1917)の創立され、現存する最古の私立美術館です。創立から5年後、大正12年(1922)の関東大震災で、3棟からなる陳列館を収蔵品の大部分もろとも焼失。昭和3年(1928)に伊東忠太が設計した現在の中国風2階建ての陳列館を新たに建設。現在、登録有形文化財。

摩訶不思議なデザインですが、初代の建物の意匠がところどころ反映されていることを知りました。2階のテラスの天井などにそれが見られます。

観覧料は1000円。ぐるっとパスで入場料無料になります。正直、ぐるっとパスのもとを取るために、泉屋博古館東京(こちらも1000円)のついでに、あまり期待せずに見に行っただけに、予想よりも面白かったです。美術ファンより歴史ファン向け。2022/10/23まで。

大倉集古館

なお、大倉集古館が所蔵する国宝は3件、普賢菩薩騎象像(彫刻)、随身庭騎絵巻(絵画)、古今和歌集序(書蹟)。次回の展覧会で、国宝普賢菩薩騎象像が展示されます。

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