国宝 綴織当麻曼荼羅図 奈良時代 7世紀後半〜8世紀 奈良・當麻寺蔵
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當麻曼荼羅は3つある!?
奈良県の當麻寺は、7件の国宝を抱える古刹。中でも門外不出の寺宝が通称「當麻曼荼羅」だ。
国宝の名称としては「綴織(つづれおり)当麻曼荼羅図」(奈良時代)。
綴れ織りとは、絵柄を織り込んだ織物のこと。ペルシャ絨毯などをイメージすると近い。着物や布、刺繍と同様に、織物は非常に保存が難しいため、奈良時代にさかのぼる本品は極めて貴重だ。
奈良国立博物館で今年7月16日から開かれる特別展「中将姫と當麻曼荼羅」に「當麻曼荼羅」が出陳されることで、當麻寺ではこの期間、曼荼羅が無いのかと問い合わせがあったようで、當麻寺中之坊(公式)ツイッターが興味深いツイートをしていた。
奈良博の特別展期間中は「當麻寺に行っても當麻曼荼羅はない?」というご心配をいただいたので ↓
https://t.co/edXkjLBuXb
このリンク先の公式ページの説明には、當麻寺は3幅の當麻曼荼羅を所持しており、展示されるのは一番新しい江戸時代の模写(それでも重文)ということだ。付けられた写真には説明がないが、左上が奈良時代の国宝の根本曼荼羅、右上が室町時代の複写(重文)、左下が江戸時代の複写(重文、修復前)、右下が修復後ということらしい。
国宝は非公開
このうち国宝の奈良時代の當麻曼荼羅は、縦横それぞれ約4メートルの大きさで、「根本曼荼羅」と呼ばれるが、退色と痛みが激しいため、そもそも非公開である。近年、一般公開されたことは無いらしい。
この織物がもともと収められていた当麻曼荼羅厨子も奈良末〜平安初めの国宝であり、こちらは常時、お寺で拝観できる。ただこの国宝の厨子に現在入っている當麻曼荼羅は国宝ではなく、室町時代の文亀2年(1502年)に複写された通称「元亀本」(重文)。こちらを国宝の根本曼荼羅と混同した人から問い合わせがあったのかもしれない。
さてこの見ることがほぼ不可能な国宝の根本曼荼羅は、どんなものなのかというと、1995年に発行された週刊朝日百科『日本の国宝』4巻で、以下のように写真が掲載されている。
きれいに撮影しただろう、この写真でも絵柄を視認するのは難しい。4メートル四方の大きさながら、もし現物を見ることができても、その意匠を確認することは難しいだろうと想像できる。
実際、昭和10年の修理の際に、全体の3分の1しか当時の織物は残っていないことが判明している。
曼荼羅でなく極楽浄土を描く
とはいえ、室町時代や江戸時代の模本などからその構造を見ると、大日如来を中心にする密教の「曼荼羅」ではなく、阿弥陀如来を中心に、観世音菩薩と勢至菩薩をはじめとする多くの聖衆がいる極楽浄土ワールドを描いていることがわかる。そのため「阿弥陀浄土変相図」と呼ぶこともある。
また、平安時代になって浄土信仰が盛り上がり、再度注目されるようになり、箔付けのためか照明のためか、下の方に、天平宝字七年(763年)に作られたとする縁起文が追記されてしまったらしい。
中将姫とは?
中将姫とは誰なのか?
鎌倉時代に作られた国宝「當麻寺縁起絵巻」(神奈川・光明寺)によれば、以下のようなストーリーがある。奈良時代の淳仁天皇のとき、横佩大臣(よこはぎのおとど)の娘が祈願したところ、阿弥陀如来と観音菩薩が尼僧と織女に化して、蓮糸(架空世界のの糸)で 一夜にして、この極楽浄土の有り様を表すこの織りものを作り上げたという伝説だ。
さらに、のちにこの伝説が、横佩大臣とは誰か?その娘とは誰か?と探求され、大臣とは藤原豊成とされた。豊成は、鎌足の孫で、藤原仲麻呂(恵美押勝)の兄だ。祈願した娘は、女性として三位(中将相当)の内侍となった中将姫が自ら作ったと見なされるようになった。
阿弥陀が一晩で作った?唐で作られた?
このように、この織物は、もともとは阿弥陀の化身が一夜で作ったという話から、実在した貴族の女性が作ったという話に変化していった。
制作地については、4メートルものこれだけの織物絵画を作る技術は、奈良時代の日本にあったかは疑問視され、中国・唐で作られて、遣唐使などで運ばれたと見られている。
こうした制作の経緯などを含めて、今回の奈良博での特別展「中将姫と當麻曼荼羅」では、最新の研究成果が明らかにされることも期待される。
参考文献 週刊朝日百科『日本の国宝』4巻
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