天正6年(1578年)3月13日 「越後の龍」上杉謙信、死す——「出陣2日前」に倒れた最強の武将

天正6年(1578年)3月13日 越後の龍こと上杉謙信が春日山城で急死する。享年49歳。3月15日に関東完全支配のために軍勢を進発させる予定だった。

越後の龍 天に召される

【3月の午後 サキの部屋】

(サキがスマホを見ながらごろごろしている。エミが本を持って隣に座る)

サキ:「ねえエミちゃん、上杉謙信って最後どうやって死んだか知ってる?」

エミ:「もちろん、急死だったんだよね。脳溢血のういっけつとみられているの」

サキ:「なんかタイミングもすごかったらしいね」

エミ

なお、謙信の死因については脳溢血(脳出血)とする説が有力ですが、胃癌など別説もあり、確定しているわけではありません。また「トイレで倒れた」という伝承が有名ですが、これも確実な一次史料があるわけではありません

エミ:「あ、出陣の前々日! 3月15日が出陣の日で、倒れたのが3月13日だったの。もう2日あれば関東に向けて出発できてたのに……」

サキ:「……うん、それは確かにドラマチックよね」

エミ:「ドラマチックどころじゃないじゃん! 歴史が変わったかもしれない」

サキ:「エミちゃんの大好物じゃん、これ!歴史変えてみてよ」

エミ:「(苦笑)まあ、IFシナリオはいろいろ考えられるわね。まずは基本情報をちゃんと話してあげるわ」

上杉謙信って、義の人?利の人?

サキ:「そもそも聞いていい? 謙信って「義の武将」みたいに言われるじゃん。あれって本当なの?」

エミ:「難しい質問ね(笑)。でも、他の戦国大名とは明らかに違う行動原理を持ってたのは確かよ」

サキ:「どういう意味?」

エミ:「例えばね、謙信が関東に何度も出兵してるのって、土地を奪いたかったからじゃないの。関東管領かんとうかんれいの上杉憲政のりまさが小田原の北条氏に追われて越後に逃げてきて、「助けてくれ」って頼んだからなのよ」

サキ:「え、頼まれたから新潟から関東にまで行ったの?」

エミ:「そう。関東に攻め入って小田原城まで包囲したのに、結局土地を奪わずに越後に帰ってきてるのよ、謙信って」

サキ:「……え、なんで? 敵の本拠地まで取り囲んで、完全勝利できそうだったのに」

エミ:「それが謙信らしいというか——土地が目的じゃないから、城を落としても意味がないのよ。「助けた」という大義を果たすことが目的だったんじゃないかって言われてるの」

サキ:「うーん……理解はできるけど、傍から見たら「何しに来たの?」ってなるよね(笑)」

エミ:「(笑)そこが謙信の面白さであり、弱さでもあったのよ。関東の武将たちも「謙信が来たら一時的に旗を揚げるけど、帰ったら北条に戻る」を繰り返すから、永続的な同盟が作れなかった」

サキ:「こいつ、越後が寒いから夏のバカンスに湘南来てるのかって」

エミ:「ははは、そんな感じ」

【人物相関図】長尾景虎が上杉謙信に変わるまで ※( )内は役職など。主要な人物・流れを抜粋しています。 凡例 上杉氏(宗家) 上杉氏(越後分家) 長尾氏(守護代) 上杉謙信(継承後) ■ 上杉氏の祖 足利氏との姻戚関係を持つ 上杉重房 足利頼氏の妻 頼重 足利尊氏・直義の母 清子 (数代略) 憲房 山内上杉氏の祖・関東管領 / 越後守護 憲顕 【関東管領:山内上杉氏(宗家)】 憲方 (数代略) 憲房 最後の関東管領 憲政 北条氏康に敗れ越後へ亡命 → 家督と管領職を景虎(謙信)へ譲る 【越後守護:越後上杉氏(分家)】 憲栄 (宗家・憲方の子) 房方 (数代略) 長尾為景に討たれる 房能 (養子) 最後の越後守護。1550年没・断絶 定実 ▼ 上杉氏の家臣・守護代 ■ 長尾氏(上杉氏の家臣・守護代) 関東長尾氏の祖・上杉憲顕のもとで守護代として活躍 長尾景忠 【越後守護代:越後長尾氏】 上杉憲顕から越後守護代に任じられる 高景 (数代略) 能景 下剋上で越後守護・上杉房能を討つ 為景 長男・当主 晴景 末子 / のちの上杉謙信 景虎(上杉謙信) ※定実の死後、越後国主となる ※憲政の養子となり上杉宗家を継ぐ 家督・関東管領職を景虎へ譲渡 定実没後、景虎が越後国主へ

## 信玄との川中島——本当に一騎打ちはあったの?

サキ:「川中島の戦いって有名だよね! 謙信が信玄に斬りかかった、みたいな」

エミ:「あれはね……正直、後世の創作が入ってる可能性が高いわ」

サキ:「えっ!? ウソなの!?」

エミ:「「ウソ」とは言い切れないんだけど、一騎打ちの場面を伝えてる史料が、合戦から時間が経ってから書かれたものが多くて。でも実際に天正6年まで川中島含む信濃方面で何度も激突してるのは確実よ」

サキ:「何回くらい戦ったの?」

エミ:「大きな衝突だけでも五回。謙信の生涯を通して「信玄とどう戦うか」が越後の外交・軍事の基軸だったといっても過言じゃない。でもね、その信玄が先に死ぬのよ——天正元年(1573年)に」

サキ:「あ、謙信より先に!」

エミ:「そう。信玄が死んで、謙信にとっての最大のライバルが消えたとき、今度は信長が新たな脅威になってくるのよ」

信長を手取川で破った!——でもその後がすごい

サキ:「謙信って信長とも戦ったんだっけ」

エミ:「戦ったのよ! 天正5年(1577年)の手取川(てとりがわ)の戦いで、織田軍をボコボコにしてるわ」

サキ:「えっ、信長に勝ったの!?」

エミ:「勝ったのよ。しかもそのまま関東にも攻め込んで豊臣……いや、まだ羽柴秀吉か、彼らも含めた織田の天下統一構想を崩しにいこうとした、と言われてるわ」

エミ

手取川の戦いでは織田軍が撤退しており、上杉側の勝利とされることが多いですが、実際の戦闘規模や被害については研究者の間でも議論があります。

サキ:「それが——出陣前に倒れた」

エミ:「そう。天正6年正月に「関東へ出陣する」って触れを出して、3月15日を出発の日と決めたの。ところが13日の午後に脳溢血(死因は諸説あり)で永眠。享年49歳」

サキ:「……49歳って若いね」

エミ:「戦国武将としてはそれほど短くはないけど、でも「あと2日」っていうのがねえ……」

サキ:「もし出陣できてたら、信長どうなってたんだろ」

エミ:「歴史学者の間でも「if」として語られる話ね。少なくとも本能寺の変(1582年)まで信長は生きてるから、謙信が生きていれば正面からぶつかる場面が来た可能性は高い」

サキ:「謙信vs信長、見たかったなぁ……」

エミ:「IFシナリオもあとで話すから楽しみにしていて」

## 謙信の「もう一つの顔」

サキ:「謙信ってさ、なんかいつも戦ってるイメージなんだけど——戦ってないときって何してたの?」

エミ:「これが意外なのよ。和歌が得意で、甥の景勝に直筆で習字の手本を書いて渡してたって記録があるの」

サキ:「え、ちょっとかわいいオジかも!」

エミ:「でしょ? それから、一生涯結婚しなかったのも有名よ。理由については諸説あって——毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を自称してたから、という説もあるし」

サキ:「毘沙門天って戦いの神様だよね? 自分がその化身だと思ってたってこと?」

エミ:「「義のための戦い」を神聖な使命として捉えてたんでしょうね。だから私利私欲のための戦はしない——少なくとも、そういう自己像を持って動いてた」

サキ:「……なんか、普通の「天下を取りたい」勢と全然違う次元で生きてたんだね」

エミ:「そうなのよ。だから死後も「義将」として語り継がれるんでしょうね」

(少し間)

サキ:「……でも、出陣の2日前に死ぬのか」

エミ:「運命って残酷よね」

サキ:「……謙信、最後まで戦おうとしてたんだね」

もし謙信が死ななかったら——IFシナリオ4選

エミ:「じゃあ、ここからはIFシナリオいくわよ」

サキ:「きたきた! エミちゃんの大好物!」

エミ:「(笑)ちゃんと史実ベースで考えるわよ。謙信が3月13日に倒れず、予定通り3月15日に出陣していたとしたら——まず確実に起きていたことから話すわね」

IF① 幻の「関東大遠征」が実行されていた

エミ:「謙信は亡くなる直前の天正6年正月に、関東平定のための陣触れ——つまり全軍への動員令を出してたの。「3月15日を進発の日と定める」って。2日前に倒れたからこそ幻になったわけで」

サキ:「じゃあ出陣してたら、北条はどうなってたの?」

エミ:「北条氏康はすでに亡くなってて、この時点では氏政の時代。謙信に小田原城を包囲された経験がある北条家にとって、謙信の再来は悪夢よ。関東の小大名たちも「謙信が来た!」ってまた旗を揚げ始めるから、北条はかなり苦しい立場になってたはずよ」

サキ:「でも謙信、また取らずに帰るんじゃないの?(笑)」

エミ:「(笑)そこなのよ! 今回は「関東平定」を明言してた。これまでとは本気度が違ったと思うのよね」

IF② 織田信長との全面決戦

サキ:「信長との戦いはどうなってたの?」

エミ:「ここが一番の「歴史のIF」ね。謙信は天正4年(1576年)に信長と断交して本願寺側についた。翌年の手取川の戦いで織田軍を破ったのもその流れよ」

サキ:「本願寺って、信長と伊勢長島とか石山(のちの大坂)とかで死ぬほど戦ってた?」

エミ:「そう!浄土真宗の門徒たちが起こした「一向一揆」。当時の信長にとって最大級の敵だったの。それを率いる本願寺はこの時点でまだ石山で信長と戦ってた。謙信が生きていれば、北から謙信・本願寺、西から毛利……という、信長包囲網が実際に機能していた可能性があるの」

サキ:「ええっ!? じゃあ信長、負けてた?」

エミ:「断言はできないけど——信長がもっとも危なかった時期に、最強の敵が北から来るわけだから。「本能寺の変なんて起きなかった」どころか、「信長が謙信に敗れていた」という歴史もあり得たかもしれないわ」

サキ:「……戦国時代って、ほんとにギリギリのバランスで動いてたんだね」

エミ:「そうなのよ。謙信一人の生死で、日本の歴史が全然違う方向に転がり得た」

IF③ 「御館の乱」が起きなかった

サキ:「御館の乱って?」

エミ:「謙信の死後、後継者を決めないまま逝ったせいで起きた上杉家の内戦よ。謙信の養子が二人いて——景勝(長尾政景の子)と景虎(北条氏康の子)が家督を巡って戦ったの」

サキ:「え、謙信が北条の子を養子にしてたの!?」

エミ:「越相同盟っていう北条との和平の証しとして受け入れたの。でも謙信が死んで後継者が決まっていなかったから、内戦になってしまった。景虎が敗れて自害するまで約2年続いて、上杉家の国力をごっそり削いでしまったわ」

サキ:「……謙信が生きてたら?」

エミ:「起きなかったでしょうね。どちらかに生前指名していたか、そもそも二人が争う隙を与えなかったはずよ。上杉家がこの内戦で消耗しなければ、その後の関ヶ原まで全然違う展開になってたかもしれない」

IF④ 上杉憲政が景勝側についていたら

エミ:「これが最大規模のどんでん返しシナリオかもしれない」

サキ:「憲政って人物相関図にもいたけど、本当の上杉家の棟梁」

エミ:「そう。かつて謙信に「上杉の家督と関東管領職」を譲った人。「元管領」なんだけど、謙信のもとでは(先代)「管領様」として大切に扱われてた。でも御館の乱では景虎側についたために、景勝の兵に斬られてしまうの」

サキ:「え……謙信を「上杉」に仕立て上げた人が、謙信の死後の内戦で殺されるの?」

エミ:「しかも降伏して、景虎の遺児道満丸と一緒に景勝方の陣に行ったら…二人とも斬首」

サキ:「ひゃあ。もともとの殿様なのに?」

エミ:「戦国時代はえぐいよね。それに、憲政はもともと北条氏と関東で血で血を洗う戦いを続けてきて、竜若丸という子供を北条に処刑されたりもしていたのに、この時は北条出身の景虎を支援したのよ」

サキ:「いろいろな葛藤があってにっくき北条を味方したのに…」

エミ:「ここでさらにIFだけど、憲政が最初から景勝側についていたら、名目上は謙信の「父」だから、自分の「祖父」にもなるし、名家だから色々な外交カードにも使えたかもしれないのよね」

サキ:「……謙信が急に死んだことで、謙信に関わった人たちへの連鎖がすごいね。謙信って、生きているだけで「抑止力」だったんだね」

エミ:「本当にそうね。天命は仕方ないけど、健康管理は昔も今も大事よね」

おまけ:プレイリスト会議

サキ:「……気持ち切り替えよ!プレイリスト!」

エミ:「そうね(笑)。私はね——進撃の巨人のLinked Horizonの『憧憬と屍の道』かな」

サキ:「進撃しまくったもんね」

エミ:「「屍の道の先に」っていう覚悟と疾走感。何度も越後の山を越える感じがあのスケール感に合うのよ」

サキ:「わかる。じゃあ私は——Aimerの『Brave Shine』」

エミ:「……Aimer、合うわね」

サキ:「謙信って、引き分けも勝ちにしちゃうような戦上手じゃん。でも最後だけ自分の体に負けた。それでも出陣しようとしてたその輝きが、「すべてを受け入れて未来あしたを探す」って歌詞も切なくて、ぴったりだなって」

エミ:「もう1曲——菅田将暉 『さよならエレジー』。謙信が死んで、「行けなかったその先」への哀愁みたいなのを感じて」

サキ:「あー、わかる。最後の歌詞「光れ君の歌」も、突然さよならした謙信への哀歌って感じがする」

🎵 今日のプレイリスト「上杉謙信」

Linked Horizon「憧憬と屍の道」| 出陣前夜の覚悟と疾走感。越後の山を越える壮大さに

Aimer「Brave Shine」 | 生涯を戦い抜いた謙信。最後だけ「体に負けた」その輝きに

菅田将暉「さよならエレジー」 | 果たせなかった旅への哀愁。「あと2日」の先にあったものへ

エミ

謙信の辞世として伝わる「四十九年一睡夢、一期栄華一盃酒(四十九年の人生は一睡の夢のようだった、この生の栄華は一杯の酒のようなものだ)」という漢詩については、謙信の作かどうか史料的に確認できていないという見解もあります。

エミ

天正6年3月13日(1578年)—— 上杉謙信、春日山城にて永眠。享年49歳。3月15日。その日は来なかった。
サキ

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