寛永14年(1637年)3月10日 本多正純、出羽にて死す 本多正信・正純父子、裏切りからの復活と顛末

寛永14年3月10日(1637年4月5日)、家康・秀忠2代に仕えた本多正純が出羽横手で死去。73歳。父の正信とともに徳川幕府の黎明期を支えた本多父子だったが、正純は晩年、改易・配流という悲運の中で生涯を閉じた。


サキ:「今日は何の日なの?」

エミ:「3月10日。寛永14年(1637年)のこの日に、本多正純まさずみが失意のうちに亡くなってるの。家康の側近中の側近だった人よ」

サキ:「本多……って、本多忠勝とは違うんだよね?」

エミ:「同じ三河出身だけど違うのよ。忠勝は『戦国最強の武将』って言われる猛将だけど、今日の本多正純のお父さんの本多正信は、真逆。戦で手柄を立てるタイプじゃなくて、頭脳と根回しで家康を支えた”官僚型”の側近なの」

サキ:「武士なのに武力じゃなくて頭脳派……現代でいうと参謀とか官房長官みたいな?」

エミ:「そうそう、まさにそんなイメージ。でもね、この正信がすごいのは、もともと家康を裏切った男だってことなのよ」

サキ:「ええっ!? 裏切ったのに側近になれるの!?」

三河一向一揆 ―― 家康と正信の「決裂」

エミ:「1563年、永禄6年のこと。三河一向一揆みかわいっこういっきっていう大きな反乱が起きたの。これ、かつては宗教戦争だと言われてたんだけど、最近の研究だと、松平氏――つまり家康の家の内部抗争っていう面が強かったみたい」

サキ:「宗教対立だけじゃなくて、お家騒動だったんだ」

エミ:「そう。そもそも家康の旗印が『厭離穢土欣求浄土えんりえどごんぐじょうど』であるように家康は浄土宗の深い信者だったの」

サキ:「……一向宗は、浄土真宗」

エミ:「もちろん浄土宗と浄土真宗は、今でも違う宗派だけど、『南無阿弥陀仏』をとなえる阿弥陀信仰という点では一致しているのよね」

サキ:「それで本多正信はなにをしたんだっけ?」

エミ:「で、正信はこの三河一向一揆で家康に反旗を翻した側についちゃうの。一揆が鎮圧されると、三河を追放されて、長い長い浪人生活が始まるわ」

サキ:「えぇ……それ、普通はもう二度と戻れないやつじゃん」

エミ:「普通はね。面白い逸話があってね。江戸時代に新井白石がまとめた『藩翰譜はんかんふ』って本に、浪人中の正信が松永久秀に会ったときの評価が載ってるの」

サキ:「なんて言われたの?」

エミ:「”強すぎず、弱すぎず、卑屈でもない。並の人物ではない”って」

サキ:「……なんかすごく褒めてるような、地味なような」

エミ:「そこがポイントなの! 突出した何かがあるんじゃなくて、すべてが”ほどほど”。でもそれが逆に非凡だった。私はこれ、正信の本質を突いた評だと思うのよね。……まぁ、実際にはこの逸話自体、江戸時代の人が正信のイメージを松永久秀に語らせた創作の可能性が高いんだけど」

サキ:「あ、そうなんだ(笑)。いわゆるゼネラリストってやつね。戦国時代の個性あふれる人たちのなかで、飛び抜けたところがないところを評価されるって、バランス感覚がすごいってことだもんね」


帰参 ―― なぜ「裏切り者」が再び必要とされたのか

エミ:「正信が家康のもとに戻った時期は、はっきりしないの。『寛永諸家系図伝かんえいしょかけいずでん』では1570年頃、『藩翰譜』だと1582年の本能寺の変の後。12年もひらきがあるわ」

サキ:「けっこうガバガバだね……」

エミ:「ただ、確実にわかるのは天正10年、つまり1582年に、家康が滅亡した武田氏の旧家臣に与えた朱印状に、正信の名前が出てくること。ここがポイントなんだけど――家康がなぜこのタイミングで正信を使ったか、わかる?」

サキ:「うーん……武田の家臣を取り込む仕事?」

エミ:「そのとおり!武田が滅んで、その旧領と家臣団を一気に吸収した家康にとって、”新参者の徳川化”が最重要課題だったのよ。で、ここで考えてみて。ずっと家康に忠義を尽くしてきた譜代の武将と、一度裏切って出戻ってきた正信。敗者である武田の旧臣にとっては、話をするのはどっちがいいかな?」

サキ:「あっ……正信のほうだ。”俺も一回やらかしたけど戻れたよ”って説得力があるもんね」

エミ:「そういうこと! これが本多忠勝みたいなゴリゴリの武闘派だったら、上から目線で武田旧臣に接して、うまくいかなかったと思うのよね。同じ頃、三河出身ではなく遠江の井伊直政も武田の赤備えを吸収して家康最強の軍団を作ったでしょ。家康って”取り込む力”がものすごかったのよ」

サキ:「裏切った経歴がマイナスじゃなくてプラスになるって、発想の転換だなぁ……」

エミ:「家康の”和解の力”よね。ただ忘れちゃいけないのは、このとき家康自身も羽柴秀吉との小牧長久手の戦いとか、滅亡寸前まで追い込まれてたってこと。余裕があったからじゃなくて、生き残るためには新参者でも元裏切り者でも、とにかく自陣を増強する必要があったのも事実ね」

家康の右腕として ―― 「謀臣」の実像

エミ:「こうして実績を積んだ正信は、天正14年(1586年)に従五位下佐渡守に叙任されて、名実ともに家康の側近になるの。天正18年に小田原北条氏が滅亡して、秀吉の命で家康が江戸に移ると、相模の玉縄たまなわ(神奈川県鎌倉市)に1万石をもらって大名になった。関東総奉行として、新しい拠点の江戸を整備していく役目ね」

サキ:「おぉ、ついに大名にまで出世したんだね!」

エミ:「でも、正信の石高は最終的にも2万2000石止まりだったの」

サキ:「え、側近中の側近なのに? 少なくない?」

エミ:「本人が固辞したとも言われてるけど、やっぱり武功じゃなくて行政面の功績だから、戦国末期の価値観では大きな石高で報いるのが難しかったんでしょうね。でもね、正信の真骨頂はそこじゃないの」

サキ:「なになに?」

エミ:「次男に政重がいるんだけど、この息子はまさに家康への裏切り者。なにがあったのか分からないけど、江戸から出て、関ヶ原の戦いでは西軍の宇喜多秀家に属していたの。高野山で隠遁していたけど、福島正則、前田利長、そして上杉家の重臣・直江兼続から頼まれて直江家の養子に入って嫡子になっているの」

サキ:「敗者一筋(笑)」

エミ:「ここからが本多正信・正純の本領発揮。この政重を、豊臣と徳川の間で揺れていた加賀前田家を確実に徳川側に取り込むために、政重を本多姓に戻して前田家に仕えさせることにしたの。それも前田家の筆頭家老として」

サキ:「直江兼続は自分の嫡男にしたのに了解したの?」

エミ:「直江兼続には息子がいなかったから養子にしたんだけど、そのあとで実子が生まれたんだよね(笑)」

サキ:「あらま」

エミ:「上杉家は改易、領地縮小で金銭的にも厳しかったから。前田家の筆頭家老って5万石もあるのよ」

サキ:「父親の正信の2万石の倍じゃん。それなら息子も喜んだだろうね」

エミ:「こうした裏工作から”謀臣”なんて呼ばれたりするんだけど、苦い浪人時代を経験してるからこそ、敗者が復活できる道を残すっていうのが正信の流儀だったとも言えるんじゃないかしら」

サキ:「あぁ……自分が”敗者”だったからこそ、か。そう考えると、なんかちょっと泣ける……」

大坂の陣の「IF」―― もし上杉や前田を追い込んでいたら

エミ:「ここでちょっとIFを考えてみましょう。1615年の大坂の陣で豊臣家は滅亡するでしょ。このとき豊臣方の戦力の多くは浪人だったわよね」

サキ:「うんうん」

エミ:「でも、もし正信たちの工作がなくて、上杉家や前田家が豊臣方についていたら、大坂の陣は下手したら『江戸の陣』で逆に家康が囲まれていたかもしれないのよ」

サキ:「うわぁ……そっか。上杉や前田を穏やかに取り込んだことが、結果的に大坂の陣での被害を最小限にしたってこと?」

エミ:「正信はもちろん単なるお人好しなんかじゃなくて、長期的に徳川の天下を安定させるための凄腕のM&Aコンサルタントだったってわけ」

正信の死、そして息子・正純の悲劇

駿府城(静岡市)で展示されている晩年の家康像

エミ:「1616年4月17日に家康が亡くなると、正信はその1か月半後の6月7日にこの世を去ったの。79歳だった」

サキ:「だいたい『49日』後……後を追うようにってやつだ……」

エミ:「主君と運命を共にしたように見えるわよね。お墓は京都の本願寺にあるの。かつて一向一揆で戦った浄土真宗のお寺にね」

サキ:「最後は自分の信仰を貫けたんだね」

エミ:「正信の人生はハッピーエンドと言えるわ。最大の幸せはその後起きる息子の悲劇を見ないで済んだことなんだけど」

サキ:「ここでようやく今日の主人公・本多正純まさずみが出てくるんだね」

エミ:「正純は、父の正信が江戸で現役の将軍である秀忠を補佐する間、駿府で大御所の家康に仕えていたの。家康の臨終に立ち会って、葬儀も指揮したわ」

サキ:「父と子で家康と秀忠を分担してたんだ。完璧な布陣じゃん」

エミ:「そうなの。両方の支柱だった家康と正信がいなくなった後、正純は今度は2代将軍秀忠のもとで事実上の筆頭家老になって、宇都宮15万5000石まで出世する」

サキ:「おぉ、お父さんの2万2000石から一気に!弟の5万石も抜かした!」

エミ:「ところが、それからわずか3年後の1622年に改易され、領地は没収。出羽の由利、今の秋田県由利本荘市に流されてしまうの」

サキ:「えっ……なんで!?」

エミ:「秀忠との対立が原因とされてるんだけど、はっきりした理由はわかってないのよ。理由が不明だと陰謀論が渦巻くのは今も昔も変わらないわ。それで宇都宮城主だった時代に『釣天井で秀忠を暗殺しようとした』っていう風聞まで流されたの」

サキ:「つ、釣天井!? 時代劇みたいな……」

エミ:「もちろんそんな事実はないわ。でもそういう噂が流れるほど、正純の改易は不可思議だったってことよね。家康の側近中の側近は、新しい権力者にとっては脅威でしかなかったのかもしれないけど」

サキ:「お父さんの正信は”ほどほど”を貫いたから2万石で収まったけど、正純は15万石まで上がっちゃったから……」

エミ:「正信は”平凡であること”を武器にした人だったけど、正純はそうではなく、フランシスコ会の宣教師のルイス=ソテロが「外交内政顧問会議長」と称したほど、表でも目立つ優秀な人物だったの。『本佐録ほんさろく』っていう父親の正信が秀忠に奉じた教訓書というのにね、有名な一節があるの」

サキ:「なんて書いてあるの?」

エミ:「”百姓は、財の余らぬように、不足にならぬように治めるのが道である”って。要は”多すぎず少なすぎず”が正信の哲学ってことね。著者が本当に正信かどうかは不明なんだけど、この”ほどほど”の精神は、まさに正信らしいわ」

サキ:「でも皮肉だよね……そのお父さんの教えを、息子は守れなかった?」

エミ:「江戸時代前期というか戦国時代って当たり前だけど、倫理観がめちゃくちゃなのよね。基本的に人を殺すことが褒めるっていう価値観だから。そのための金もうけももちろんノールール、ノーボーダー」

サキ:「No Border…マフィアか」

エミ:「特に経済官僚は石高以上に莫大な利権を持っていたと考えらるの。例えば家康の金庫番で全国の金山、銀山を管轄した大久保長安は代官職だったけど、一説には実質120万石を領有していたとも言われるわ」

サキ:「120万石って、加賀百万石より多いじゃん!」

エミ:「1613年に病気で亡くなると、生前の貯蓄などの利権が掘り返されて、子供たち7人が処刑されるなど一族皆殺しになるの」

サキ:「ヒェッ!」

エミ:「ぶっちゃけ、生きている間は大久保長安のマネーロンダリングなんて全員が知っていたことだよね、って感じするけど。だから、本多正信は2万石だから清貧だった、なんて話も、眉唾だと私は思うけど。ともかく、正純はとんでもない方法ではしごを外されるの」

サキ:「怖い…けど聞きたい…」

エミ:「1622年(元和八年)10月、正純は改易が決まった最上義俊の出羽山形藩を接収するための幕府の人間として、宇都宮から山形に向かっていた…」

サキ:「えっ。改易を伝える側?」

エミ:「そう。その途中で、幕府から『お前も改易になった。そのまま出羽由利の本庄藩(最上家の重臣のため改易)5万5000石に移動しろ』と命じられるの」

サキ:「はぁ?」

エミ:「はぁ?だよね。完全な内部クーデターと言ってもいい。ともかく、宇都宮城から出てしまった正純に抗う術はなかった。正純は出羽5万5000石の領地を拒否して、1年後に1000石で出羽横手に配流される。そして、横手で13年過ごして、寛永14年3月10日に73歳で亡くなるの」

サキ:「5万石を拒否したのは、プライドだったんだろうね」

エミ:「そうでしょうね。きっと何が起きたかについても本人は語らなかったんじゃないかな。だからこそ、『釣り天井』なんて陰謀論まで出てしまった。とにかく、徳川家における本多家は2代で隆盛して、没落してしまった」

サキ:「うぅ……真相がわからないだけに、切ないなぁ」

エミ:「でもね、ひとつ希望があるの。正信の次男・政重の家系は、加賀藩の筆頭家老として幕末まで続いたのよ。中央で目立った本家は潰れたけど、地方で”ほどほど”に生きた分家は、最後まで役目を全うしたとも言えるの」

サキ:「関ヶ原で西軍だった方が残るなんて……歴史って本当になにが起きるかわからないね」

謎解き:鶴岡八幡宮に正信奉納の大太刀

エミ:「最後にひとつ。天正20年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵で肥前名護屋城に出陣する家康のために、正信が鶴岡八幡宮に奉納した大太刀が残ってるの。134センチもあるのよ」

サキ:「134センチ!? 私の身長の9割くらいじゃん!」

エミ:「主君の武運と健康を願って奉納したんだけど、官僚で平凡って言われている正信がこんなにド派手でサキちゃんと同じくらいの大太刀を奉納するっていうギャップ。どう思う?」

サキ:「あぁ…もしかして…またエミちゃんの歴史探偵の答えがある?」

エミ:「ふふふ。これは想像だけど、正信の”平凡”イメージこそ、正純への不可解な処分と正純の新領地拒否という選択を、庶民を含めた江戸時代の人たちが納得するための創られた”ナラティブ”だったんじゃないかしら」

*寛永14年(1637年)3月10日、家康・秀忠2代に仕えた本多正純が配流先の出羽横手で死去

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