承久3年3月11日(1221年4月5日)公家の飛鳥井雅経が52歳で死去。「新古今和歌集」撰者で、蹴鞠の飛鳥井流の祖でもあり、蹴鞠大好きな後鳥羽上皇に重用されました。
【3月11日 シーシャ屋で】
(サキがお店の大画面で流れるサッカーの中継をぼんやりと眺めている)
サキ:「あ〜、今のシュート惜しかったなぁ……」
エミ:「サキたん、1221年3月11日がなんの日か知ってる?」
サキ:「シーシャ屋でも平常運転だね、エミちゃんって(笑)」
エミ:「ちょうどサッカー見てるから思い出したのよ。1221年のこの日、飛鳥井雅経(1170~1221年)が亡くなったんだけど——この人、日本の蹴鞠の超重要人物なの」
サキ:「蹴鞠ってあれ?お正月にお公家さんがポワッと蹴ってるやつ?」
エミ:「そう!蹴鞠(しゅうきく)って読むのが正式なんだけど、蹴鞠の家元みたいな存在よ。飛鳥井流の祖とされていて、江戸時代まで蹴鞠を教えられる家は飛鳥井家と難波家の2流しかなかったくらい」
「飛鳥井」は号でもともとは姓ではありませんでした。ちなみに難波家の祖も雅経の兄の難波宗長です
サキ:「え、免許制みたいな感じ!? JFAプロライセンス(旧S級ライセンス)みたいなのがずっと昔からあったんだ……」
エミ:「(笑)確かにそうかも。しかも雅経、蹴鞠だけじゃないのよ。『新古今和歌集』の撰者のひとりでもあるの」
サキ:「新古今和歌集って、百人一首にも入ってるような超有名な勅撰和歌集だよね?」
エミ:「そう!藤原定家とかと一緒に編んだ和歌集。歌も蹴鞠も、どっちも当代トップクラス——まさに文武両道ってやつね。それで後鳥羽上皇や頼朝の息子の実朝とか、時の権力者たちに気に入られて、鎌倉と京都を行ったり来たり」
サキ:「サッカーのトップ選手が移籍しまくるみたいだね」
エミ:「まさにそれよ!」
サキ:「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で後鳥羽上皇がサッカー、いや蹴鞠好きだったのは、実はこの人のせいだったのね」
エミ:「この人がすごいのは、腕一本、いや足で逆境からのし上がったことなのよ。この際、和歌の名人ということはとりあえず横に置いて」
サキ:「そこはきょうはスルーということね(笑)」
エミ:「実は雅経のお父さん藤原(難波)頼経は源義経の側についていたの。義経が平泉で死んだ1189年に、伊豆へ配流されちゃうの。70年生まれだから雅経は20歳くらいの若者だったのね」
サキ:「実は義経を全面支援していたのは後白河法皇だったんだよね。朝廷の尻尾切りだね……」
エミ:「そう、まさに尻尾切りで”好きに処分して”という後白河の含意で頼朝の支配下の伊豆へ移送される。ところが、面白いのはここからよ。頼朝は、若い雅経を自分の息子の家庭教師として利用しようしたんだと思う。どうやら雅経は鎌倉に送られたっぽいの」
サキ:「ふむふむ」
エミ:「そして12歳年下、8歳くらいだった源頼家(1182~1204年)——頼朝の長男ね——に気に入られ、頼家はのちに身を滅ぼした原因ともされるほど『蹴鞠』に夢中になっていく」
サキ:「京都から来た運動も勉強もできる12歳年上の憧れの”お兄さま”からの影響ってこと?」
エミ:「そう雅経は20歳で、サッカーはJリーガー並み、和歌は米津玄師並み。そしてイケメン」
サキ:「イケメンだったの?」
エミ:「ごめん。イケメンは適当に言った」
サキ:「イケメンってことにしておこう(笑)」
エミ:「そして鎌倉幕府の立役者で頼朝の腹心の大江広元の娘と結婚することになるの」
サキ:「大江広元って、鎌倉殿の13人の中でもキーパーソンな人だったよね。その娘と結婚できたってことは、かなり鎌倉での地位を固めてたってこと?」
エミ:「そういうこと。鎌倉幕府への反乱分子の息子が、蹴鞠で得た鎌倉幕府の人脈と信頼で、今度は武家社会と朝廷を繋ぐ独特のポジションを手に入れるの」
サキ:「これは続きが気になる展開」
エミ:
-1192年に後白河法皇が亡くなり、後鳥羽天皇(1180~1239年)が親政を行う
-後鳥羽は1198年に譲位して上皇となり、強力な院政を敷く
-その前年の1197年、雅経は後鳥羽上皇の命によって京都に戻る
-1201年に新設された和歌所の寄人(幹部)となる
-1205年には藤原定家たちと勅撰和歌集『新古今和歌集』を撰進する
サキ:「うわー、見事な復活劇。後鳥羽上皇にとっても10歳年上のJリーガー、いやバルセロナのメッシ。蹴鞠大好きになるわけだ」
エミ:「後鳥羽上皇の命令といっても、実態としては朝廷側が鎌倉幕府に『どうか彼を戻してください』、もしくは鎌倉幕府が朝廷に『押し込んだ』可能性もあるんじゃないかな、推測だけど」
サキ:「出た、エミちゃんの歴史探偵推理」
エミ:「雅経はその後も鎌倉と京都を往復して『サッカー』と『ボカロ』を広めたの。あの『方丈記』の鴨長明(1155~1216年)を源実朝に紹介したのも雅経だったの」
サキ:「ボカロチックな名文『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』で始まる『方丈記』!実朝って将軍なのに中国の宋へ渡るとか言って大きい船を作って現実逃避しちゃった人だよね。絶対影響受けているでしょ」
エミ:「現実逃避って(笑)。でも、雅経が、源頼家、実朝、後鳥羽…当時の”若者”たちにものすごい影響を与えたことは間違いないわ」
サキ:「雅経って結局、どんな人だったんだろう」
エミ:「蹴鞠でどんな技を見せたかは今では分からないけど、後鳥羽上皇が島流しになったときに書いたとされる歌評書『後鳥羽院御口伝』で、雅経について「練りに練って歌詞を作ったボカロPだった。代表曲に気品や風格のある歌は多くはないのだが、とにかく手練れだった」と評しているわ」
サキ:「ボカロ現代語訳やめて(笑)サッカーに例えると、ファンタジスタってことでいいかな?ところで雅経の作品って今も残ってるの?」
エミ:「それが残ってるのよ!東京国立博物館と大阪の湯木美術館に『熊野懐紙』が重要文化財として所蔵されてて、根津美術館にも『飛鳥井雅経筆懐紙』があるわ」
サキ:「熊野……思い出した…三井記念美術館に一緒に行った、800年前のデスマーチ旅ログ『熊野御幸記』だ!」
エミ:「そう、後鳥羽上皇が熊野詣をしたときに、道中で公家たちが歌を詠んでその場で紙に書いたものなの。そうそう!定家と一緒に、雅経もその旅に同行していたのよ」
サキ:「震える……。蹴鞠の技は映像に残せなかったけど、歌と筆跡は残ってるんだ。そういう意味では、歌人として生きてたことが後世に繋がってるんだね」
エミ:「そういうこと。ところで、承久3年(1221年)3月11日、52歳で亡くなるんだけど——ちなみにその年の6月には承久の乱が起きているの。後鳥羽上皇が幕府に反旗を翻した大事件で、後鳥羽上皇は隠岐へ島流しになる」
サキ:「え!! 雅経って、その直前に亡くなってるの?」
エミ:「そうなのよ。もし生きてたら、どっちについたんだろうって思うよね。後鳥羽院にも鎌倉にもつながりがある人だから」
サキ:「……それは本当に、生きてたらどうしたんだろうなぁ。なんか切ない」
エミ:「乱の3ヶ月前に逝ったのは、雅経にとっては、幸運なんかじゃないかって思えるほど、運命的よね」



この記事へのコメントはありません。