天平13年2月14日(741年3月5日) 諸国に国分寺・国分尼寺を建立させる命令(詔)

天平13年2月14日(741年3月5日) 諸国に国分寺・国分尼寺を建立させ、それぞれの寺名を金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺とする命令(国分寺建立の詔)を出す。(続日本紀)
常陸、遠江、讃岐国分寺跡が国特別史跡のほか、陸奥など各地の国分寺跡が国史跡。
当時の建物は現存していないが、国分寺があったところに後の時代に建てられた以下の建造物が重要文化財。
陸奥国分寺薬師堂(宮城県仙台市) 桃山時代 慶長12年(1607年)
信濃国分寺三重塔(長野県上田市) 室町中期(1393-1466年)
飛騨国分寺本堂(岐阜県高山市) 室町中期(1393-1466年)
備中国分寺五重塔(岡山県総社市) 江戸後期・文政年間(1818-1829年)
周防国分寺金堂(山口県防府市)江戸後期・安永8年(1779年)
讃岐国分寺本堂(香川県高松市)鎌倉後期(1275-1332年)
土佐国分寺本堂(高知県高知市)室町後期永禄元年(1558年)

「丹後国分寺再興縁起」(京都・国分寺蔵)が重要文化財。

 国分寺再興縁起は、嘉暦3年(1328)から建武元年(1334)に至る西大寺派の宣基上人による丹後国分寺の再興の経緯を記録したもので、その成立は『丹後州宮津府志』の記事よりみて、建武年間を程遠くない頃とみられる。
 本書はその南北朝時代に遡る古写本で、体裁は薄茶地桐唐草〓文散表紙を装した冊子本である。現状は各本紙の周りを切り詰めて四周に金箔野毛を散らした付廻紙を装した明朝装に改装されているため、原装を詳らかにしない。料紙は楮紙で、本文は一部に片仮名を交え、半葉7行、一行おおよそ8~9字前後に行体で書写する。文中には本文とほぼ同筆にて墨傍訓、送仮名が稠密に施され、一部に朱声点が付されている。さらに全文にわたり室町期とみられる朱筆傍訓、送仮名、返点や、人名・件名には朱拘点、朱引がみえている。文中第14丁、16丁に金堂供養の差図があるが、これは改装時に第13丁、15丁裏部分を相剥して各一枚としたもので、現在の丁数は28丁を数える。
 本文は首尾を欠くが、その内容はおおよそ3段に分けられる。
 前段は、国分寺の荒廃を嘆いた42歳の宣基が、嘉暦3年10月、在庁藤原権介助忠の勧めによって興行の大願を起こし、諸方を勧進した次第を記している。中段は、建武元年4月7日の金堂上棟の様子を棟木銘を引用して記しており、堂供養が国衙をあげて行われたことや、造営に従事した番匠についてふれている。後段は、金堂供養会の実態を詳述するが、その衆僧のほとんどが西大寺系の人々で占められている事実は、この再興事業が宗派をあげて行われたことを示している。
 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて西大寺系律宗教団が、その教線の拡大の一環として西国国分寺の復興活動にあたったことはよく知られているが、その内容を具体的に伝えるものとしては、本書が唯一の史料である。(文化庁国指定文化財等データベースより引用)

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