【10月6日(火) 丸の内のオフィス 昼休み】
(コンビニのおにぎりを片手に、サキがスマホのニュースをスクロールしている。向かいでエミがジンジャーエールを開ける)
サキ:「エミちゃん、エミちゃん。今朝からタイムラインが静かにざわついてる」
エミ:「歴史界隈ね。私も見たわ。……利休でしょう?」
サキ:「そう! 千利休の直筆の手紙が見つかったって!」
エミ:「直筆断定じゃなくて『とみられる』ね」
1 利休の「ごめんなさい」が届いた
(エミがスマホの画面を見せる。富山県・高岡市立博物館の収蔵のニュース)
エミ:「報道によると、収蔵したのは富山県の高岡市立博物館。千利休(1522〜91)の直筆とみられる書状よ。宛先は徳川家康の重臣、榊原康政(1548〜1606)とみられるの」
サキ:「榊原って、徳川四天王の一人だよね。で、手紙の中身は? 茶道の極意とか?」
エミ:「それがね、お詫びなの」
サキ:「お詫び!?」
エミ:「京都に滞在中の康政に宛てて、『不慮の出来事があり、お目にかかれず、面目ございません。直接会ってお話ししましょう』という趣旨。あわせて、康政からもらった手紙へのお礼も書いてあるそうよ」
サキ:「利休が……ドタキャンしたの?」
エミ:「言い方!」
サキ:「だって『会えなくてごめん、今度ちゃんと会って話そう』でしょ? 完全に私がエミちゃんに寝坊したときのLINEそのものじゃん」
エミ:「(笑って)否定できないわね」
サキ:「でもさ、なんで『お詫びの手紙』が残ってるんだろ。普通、そういうのって読んだら捨てない?」
エミ:「いい指摘ね。それは本当に分からないけど、捨てるかどうかは受けとった側だから。たとえ利休が読んだら捨ててと思っていてもね。ただ、茶人や武将の手紙って、書き手の字や人柄が伝わるから、大切にとっておかれることが多かったと言われているわ」
サキ:「手紙って、内容より『誰が書いたか』に価値が出ることもあるんだね」
エミ:「そうね。署名は『宗易』、そこに花印が添えられている。宛名は『榊原式部太夫(大輔)』と書かれているそうよ。日付は2月10日。ただし何年かは分かっていないの」
サキ:「年代不詳かぁ。そこが一番知りたいのに」
エミ:「しかもね、この手紙、既存の主要な文献には載っていないらしいの。つまり新発見の史料の可能性がある。だからこそ今、慎重に『とみられる』と言っているのよ」
サキ:「ねぇ、利休って茶の湯の人でしょ。『わび茶』ってよく聞くけど、わびって何?」
エミ:「簡素で静かな美しさを大切にする、茶の湯の考え方ね。ところで今回の手紙は——『わび』状よ」
サキ:「…………」
エミ:「……あら」
サキ:「エミちゃん、侘びと詫びは別物だよ。ここ昼休みだし、お茶飲み冷めるよ」
エミ:「ジンジャーエールだけど!」
エミのメモ📝
高岡市立博物館で10月17日〜12月20日に展示される予定です。
出典: [北陸中日新聞](https://www.chunichi.co.jp/article/1320659)
2 秀吉の姫路城、石が小さい
サキ:「姫路城は池田輝政が築いたって習ったけど、その前があるんだよね?」
エミ:「そう。羽柴(豊臣)秀吉の時代ね。姫路市埋蔵文化財センターで、企画展『TOYOTOMI IMPACT―羽柴・木下期姫路城研究の新地平―』が10月4日から12月20日まで開かれているの」
サキ:「秀吉時代の姫路城って、どんな城だったの?」
エミ:「羽柴時代の姫路城は今も石垣の一部が本丸近くなどで残っているの。姫路城の全体は改修、増築を重ねて直線的な巨大城郭になっているけど、天守閣のある本丸って自然の地形が残っていて丸みがあるのよね。だから、羽柴時代の城のベースは割と残っている可能性があるの」
サキ:「たしかに姫路駅からはまっすぐ歩くけど、本丸に入ったら、軽い山登りみたいな感じだったね」
エミ:「とはいえ、建物は全く残っていないわ。だから注目されているのは『昭和の大修理』(1956〜64)のとき、大天守の地下から見つかった、羽柴・木下期とみられる遺構や遺物ね」
サキ:「地下かぁ。上は池田時代の天守、その下に秀吉時代が眠ってたんだ。地層みたい」
エミ:「直線的って言ったけど、面白いのは、池田期の城下町の町割りの方位軸が羽柴期を踏襲していたこと、今の大手前通りの方位も羽柴期に由来することも、パネルで解説されているそうよ」
サキ:「私の想像だけど、防御力が重視される城の中心部は自然地形を生かして、一方で経済発展を狙う新しい城下町は直線的で使いやすくというハイブリッドな建築設計だったんじゃないかな」
エミ:「するどい!さすが理系ね」
出典: [朝日新聞](https://www.asahi.com/articles/ASVB342MXVB3PIHB00LM.html)
3 富士山の「ふた」が守った葺石
サキ:「次これ! 静岡の浅間古墳。217人が見に来たって。地方の都市ですごい人数だね」
エミ:「静岡県富士市の国指定史跡ね。全長約91メートル、東海地方で最大級の前方後方墳として注目されているのよ」
サキ:「最大はロマンだもんね。前方後方墳……前も後ろも四角ってこと?」
エミ:「そう。前方後円墳の『円』の部分が四角いの。鍵穴じゃなくて、四角が二つ繋がった形ね」
サキ:「で、何が見つかったの?」
エミ:「7月からの本格調査で、くびれ部から、築造当時の葺石(ふきいし)が約5メートル四方にわたって確認されたの。葺石っていうのは、古墳の斜面を覆う石のことよ」
サキ:「5メートル四方って、けっこう広いね」
エミ:「しかも状態がいいの。富士山の火山噴出物に密閉されて、良好に残ったとみられているわ」
サキ:「あ、それ分かる! 空気とか水から隔離されたから傷まなかったんでしょ。……災害が、結果的にタイムカプセルになったんだ」
エミ:「いい表現ね。静岡県東部の同じ時期の古墳で、葺石を持つのは唯一の例とみられるそうよ。筑波大の滝沢誠教授は『大変大きな成果』と評価しているわ」
サキ:「唯一! それは大きいね。あと、まだ続きがあるんだよね?」
エミ:「約650点の壺などの破片が出ているの。そこから、4世紀半ばとみられる築造時期をさらに絞り込める可能性があるらしいわ」
サキ:「650点の破片で年代が絞れるんだ……土器って、形とか模様で時代が分かるんだよね。ジグソーパズルというより、時間のものさしだ」
エミ:「まさに、考古学は何百万というピースのパズル。ここも何年もずっと調査しているみたいだから、毎年少しずつピースが埋まっていくんじゃないかしら」
出典: [朝日新聞](https://www.asahi.com/articles/ASVB52T0VVB5UTPB00DM.html)
4 340年ぶりの「おかえり」——当麻曼荼羅
エミ:「最後のニュースはこれよ」
サキ:「なになに、愛媛の宇和島、大超寺に修復を終えた當麻曼荼羅が約2年ぶりに戻ってきたって」
エミ:「約340年前から伝わる曼荼羅ね。縦約4.2メートル、横約2.9メートル。かなり大きいわ」
サキ:「大きいなぁ。壁一面だ」
エミ:「極彩色の岩絵の具で、阿弥陀如来を中心とした極楽浄土が描かれているの。江戸時代に地元の商人とみられる人物が寄進した記録もあるそうよ」
サキ:「商人が寄進……あ、それ、前に見たフェルメールと見返り美人の話と似てない? 『町の人が絵にお金を出す時代』」
エミ:「(目を丸くして)サキちゃん、鋭いわね。340年前というと、1680年代ごろ。ちょうど江戸前期、町人が力をつけてきた頃よ」
サキ:「うん。お寺に絵を納めるのも、町の人が『みんなのため』にやるようになったのかなって」
エミ:「ただ、この曼荼羅を寄進した商人がどんな人かは、記事には書かれていないの。そこは想像に留めましょう」
サキ:「うん。それに修復は新居浜市の工房で、表装の修理と汚れ落としをしたんだって。お寺に戻ってきたとき、きっとほっとしたんだろうなぁ」
エミ:「一般公開は10月17〜20日の午前9時〜午後3時と、21日の午前ね」
エミのメモ📝
当麻曼荼羅は、奈良の當麻寺に伝わる曼荼羅をもとにした浄土図として知られています。法然が興した浄土宗で特に重視され、鎌倉時代以降に数多くの「複製」が作られました。大超寺のものは江戸時代のものと伝わる一幅です。
出典: [毎日新聞(Yahoo!ニュース)](https://news.yahoo.co.jp/articles/bf867cd0a857d9b2e0ba3a9f0b6ec8f4251ef5b3)


この記事へのコメントはありません。