北宋書画における審美基準の変革を米芾を中心にまとめ 北宋書画精華の予習用メモ

今週、根津美術館の北宋書画精華を見に行くので、北宋書画における審美基準の変革を米芾べいふつを中心にまとめておくメモ。参考にしたのは東京国立博物館の特別展「顔真卿」の図録から。

1. 序論:北宋における芸術評価軸のパラダイムシフト

中国書道史の地平において、北宋(960年〜1127年)は「法」から「意」への転換を成し遂げた革命的時代である。明の董其昌が「晋人は韻を、唐人は法を、宋人は意を取る」と断じた通り、北宋の文人たちは唐代の峻厳な規矩(法)への盲従を排し、個人の内省的な精神性、すなわち「意」の表出を芸術の核心に据えた。

この変革期において、宮廷の書画学博士(鑑定官)として異彩を放ったのが米芾(1051年〜1107年)である。彼は古人の書を徹底的に模倣する「集古字」の段階を経て、晩年に至り「老いて始めて自ら家を成す」と語ったように、独自の審美体系を確立した。米芾の特異性は、当時の主流であった道徳的人格論を峻拒し、作品を作者から切り離された独立した生命体として捉える「作風・人格分離論」を提唱した点にある。本報告書では、米芾が到達した「平淡天真」の構造を解剖し、現代の芸術批評におけるその転用価値を論証する。

2. 蘇軾・黄庭堅に見る「人格・書画一体論」の評価構造

米芾の独創性を際立たせるためには、まず当時の主流派であった蘇軾や黄庭堅が信奉した「書はその人なり(凡書象其為人)」という評価軸を理解せねばならない。

2.1 「天資」と「篤学」の相関

蘇軾は、当時の第一人者・蔡襄を「天資既にな高く、学もまた至れり」と評した。ここでいう「天資(天賦の才)」と「篤学(深い学習)」の止揚こそが、北宋初期の理想的な書家の条件であった。彼らにとって、優れた書とは高度な知性と鍛錬の産物であり、同時に制作者の資質を鏡のように映し出すものであった。

2.2 儒教的道徳観による拘束

当時の評価基準の根底には、柳公権の「心正しければ筆正し」という言葉に象徴される道徳的決定論が存在した。顔真卿が至高の評価を受けたのは、単にその書技ゆえではなく、彼の「名節(節操)」が書に宿っていると信じられたからである。蘇軾にとって、道徳的に卑俗な人間が書く工巧な字は「貴ぶに値しない」ものであり、芸術評価は常に制作者の社会的・人格的評価と分かちがたく結びついていた。米芾はこの「人格=作品」という伝統的な方程式を解体し、審美眼の純粋な自律性を追求することになる。

3. 米芾「平淡天真」論の深層:作為の排除と自然の発露

米芾が理想とした「平淡天真」は、老荘思想を源泉とする高度に構造化された審美概念である。

3.1 「平淡」:絢爛の極致としての「無味」

「平淡」の語源は『老子』の「淡くしてそれ味なし」にある。米芾は、これを単なる簡素さではなく、過剰な技巧を削ぎ落とした先に立ち現れる「生動(いきいきとした生命感)」と定義した。蘇軾が「絢爛の極致が平淡に造る」と説いたのに対し、米芾はより直裁に、魏晋の書が持つ「あっさりとした味わい」の中にこそ、不変の「格」を見出した。

3.2 「天真」:作為(意)の外にある自然

「天真」とは、自己の「はからい(作為)」から解放された無心の状態である。米芾は、顔真卿や柳公権の楷書(「顔氏家廟碑」等)を「作用太だ多く(作為が多すぎる)」として峻烈に批判した。

* 「挑踢」の醜怪性: 米芾は、意図的に形を整えようとする「挑踢(はね・払い)」を「醜怪悪札の祖」と断じた。作為が表面化した線は「筆気鬱結(エネルギーの滞り)」を引き起こし、自然な生命の脈動(条暢)を阻害するためである。
* 非作為の必然性: 彼の求める「自然(天成)」とは、意識的な「意(デザイン)」を消去した後に、自ずから成る境地を指す。これは単なる技術不足の露呈ではなく、徹底した古法の習得を経て、なお「意の外」に出るという至難の工夫の果てに到達するものである。

4. 分析:米芾独自の「作風・人格分離論」と独立した精神性

米芾の革命性は、作品を作者の伝記的背景から完全に解放し、作品そのものに「人格(Spirit)」を見出す逆説的なアプローチにある。

4.1 作品を「一佳士」として対峙する

米芾は、優れた書を「骨筋、皮肉、脂沢、風神、皆な全し。なお一佳士(ひとりの佳き人物)なるが如きなり」と評した。これは、作者が誰であるかという情報を保留し、作品が備える肉体的な筆力(骨筋・皮肉)と、そこから立ち上がる精神的な気格(脂沢・風神)を直接的に感取する態度である。作品自体が自律した生命体として「立ち上がる」瞬間を、彼は鑑定の核心に据えた。

4.2 顔真卿評価の二面性:楷書と行書の断絶

米芾が顔真卿の楷書を「俗」と切り捨てながら、草稿である「争坐位帖」を絶賛した事実は、この分離論を如実に物語る。

* 楷書への排斥: 儀礼的な楷書は「形を似せよう」とする意識が強く、自然さを欠く「奴書(模倣の書)」に陥りやすい。
* 行書(率意)への信服: 走り書きの草稿には文字の造形に固執する「意」が入り込む余地がない(意は字に在らず)。ゆえに、作為を超えた「天真」が剥き出しとなって現れるのである。

4.3 蘇軾「意造」と米芾「天真」の相違

蘇軾は「自ら新意を出し、古人を践まず」と述べ、主観的な創造の「快(快感)」を肯定した。しかし米芾は、その「新意を出そうとする意識」さえも「意造」という名の作為として警戒した。米芾の理想は、意識の外(意の外)から自然に発露する「天真」であり、作者の主観性を超えた「作品そのものの生意(生命感)」を評価することにあった。

5. 現代の書画鑑定・批評への転用:評価基準の構造的提案

米芾が示した審美眼は、情報の氾濫やブランド信仰に揺らぐ現代の芸術評価に対し、極めて健全な「批評的距離」をもたらす。

5.1 プロフェッショナルのための評価マトリクス

現代の鑑定プロセスにおいて、米芾的視点を以下の3項目に構造化することを提案する。

1. 作為の純度(Absence of Artifice): 鑑賞者に「上手く見せよう」という意図や演出が透けて見えていないか。技巧が肉体化し、意識的な「はからい」を超えた「率意」の運筆が保たれているか。
2. 独立した生命感(Sheng-yi / 生意): 作者の経歴や知名度という「曇り」を除去し、作品単体から「生きた精神」を感取できるか。作品が「骨筋・風神」を備えた「一佳士」として自律しているか。
3. 平淡の奥行き(Depth of Blandness): 瞬間的な視覚的インパクト(絢爛)を削ぎ落とした後に、持続的な「淡味」が存在するか。時の試練に耐えうる、抑制された「格」の高さがあるか。

5.2 ブランド依存からの脱却

現代のオークションや批評の現場では、アーティストの経歴(物語)が作品評価を上書きしがちである。米芾の「作風・人格分離論」は、作者の社会的名声が作品の「筆気」を曇らせることを許さない。鑑定家は「心手相応(心と手が一致する)」の境地、すなわち技巧が作為を突き破って自然と化した瞬間を、執拗に観察すべきである。

6. 結論:芸術における真の「自然」とは何か

米芾は自身の創作を「一難事(困難な仕事)」と呼んだ。これは、欧陽脩や蘇軾が書を「一楽事(楽しい仕事)」として遊戯的に捉えたのとは対照的である。米芾にとっての書とは、徹底的な「集古(古法の吸収)」という重圧に耐えながら、同時にそれらを突き破って己の「天真」をあまねく発露させるという、極めて孤独で峻厳な闘争であった。

彼が到達した「平淡天真」の境地は、儒教的な道徳観や時代の流行、あるいは作者自身の「意(エゴ)」からさえも自由になった、真の意味での芸術の自律性を示している。プロフェッショナルな鑑定の真髄とは、歴史的知識や市場価値の背後にある、作品が「ひとりの佳き人物」として立ち上がる瞬間を、自らの審美眼によって射抜くことに他ならない。米芾の分離論は、千年を経た今日においても、芸術の真価を問い直すための羅針盤であり続けている。

以下は上記の考察のために引用したもの

まず、五馬図巻
2019年の東京国立博物館の特別展「顔真卿」の図録での解説文の引用

白い画面に引いた墨線のみによって、描写対象の質量感、そして生気を豊かに表わそうというのが、北宋時代に知識人たちに愛された「白描」という表現技法の美意識である。李公麟(一〇四九?〜一一〇六)はその第一人者として知られ、人物や馬などをよく描いたという。李公藤筆と伝えられる作品は多いが、本図はその中でも、真筆かつ代表作と認められてきた名品である。巻頭から、西域諸国より北宋に献じられた名馬と馬丁が各紙に 一組ずつ、 計五組並べられる。墨線に
は抑場があり、あるいはなめらかに、あるいはややかすれながら、思いきりよく一本で、もしくは複数本引き重ねられて、対象の真に迫っていく。一紙ごとに見られるられる領質や彩色の程度の違いを、対象に合わせた描き分けとするか、手がけた人物あるいは時期の違いとするかについては検討を要するだろう。
本図の後ろには、黄庭堅が李公麟の馬図を評した跋があり、顔真卿を学んで自己の創意を加えたという堂々たる書風を見せる。 さらに、曾紆(一〇七三〜一一三五)の跋が合装され、黄底堅が張詢 (字・仲謨)蔵の李公麟の馬図に題記したことと、その後、黄庭堅と李公麟の画技について語り合ったこと、そして黄庭堅没後、劉延仲の手に渡っていたその馬図に再会したことを記す。
本図は、南宋時代には宮廷の収蔵にあったと考えられ、それ以降も、元の著名な書画家である趙孟頫(一二五四〜一三二二)や柯九思(一二九〇〜一三四三)が鑑賞するなど、画馬の古典として伝えられ、明代には多く模本もつくられたようである。清代に入り、宋犖(一六三四〜一七一四)の収蔵を経て乾隆帝(一七一一〜九九)のコレクションに入った。歴代の皇帝、名だたる文人に愛された稀代の名品といえる。

引用終わり

同図録の「宋の四大家と顔真卿」から引用

唐時代の前半に完成された楷書は理知的で、完璧な出来ばえでした。宋時代になると、社会の変化にともない新しい息吹が芽生えます。科挙に及第して国政に与り、文化を権引する知識人たちは、束縛を嫌い、精神の解放を求めました。宋時代の知識人たちにとって、唐時代の完璧な楷書は近づきがたい存在でしたが、安史の乱の前後に興った情感を発露する書風は、彼らに受け継がれ、さらに発展しました。
宋時代に顔真卿を高く評価した人物としては、欧陽脩(一〇〇七〜七二)があげられます。唐時代に書法を習得することは、禄を干めるための手段でもありました。そのため、唐人は、一点一画の微細な配置にも心を砕きました。一方、欧陽脩は明窓浄机のもとで精良な筆墨を用い、書を心から薬しみました。書は目らの心情を吐露する場であり、書の善し悪しは人格や人間性によって価値づけられると考え、顔真卿の書を理想としました。
(略)
蘇軾の考えは黄庭堅 (一〇四五〜一一〇五)に受け継がれます。黄庭堅はあたかも求道者のように書法の要諦を求め続け、悟りによって新たな境地を見いだしました。書における風韻を重視し、自らの書風を創出して別幟を立て、顔真卿を絶賛しました。

続いて特別展「書聖 王羲之」図録から引用

コラム 宋 米芾(べいふつ)

魏晋から唐時代までの貴族文化に代わって、宋時代には主として科挙の試験に及第した知識階級である士大夫が学問芸術を担うようになり、書の表現においても質的な変化がもたらされた。宋時代には、伝統的な書法にとらわれることなく、個人の精神性を重視し行書や草書に自由で個性的な意趣を監り込み、生命惑
あふれる書風が興った。宋人は書というものを、人間の理念を吐露しうる場として認識するようになったということができる。
宋時代の書は 北宋に活躍した蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾の四大家に代表される。蔡襄は晋人の風韻を尚び、何気ない書きぶりの中にも、精神の躍動する書を標榜した。蘇軾の書は、古法にとらわれることなく、新意を出すことを重視し、自由に筆をふるい自ら「我が書は造意、本より法無し」という書境を目指した。黄庭堅は、唐時代の張旭・懐素の狂草の流れを承ける草書を善くし、晩年には禅学への修養を積んで、求道者のような
厳しさを以って書に取り組み、超脱の書境を目指した。
古今の法書名画を収蔵した米芾は、極めて精到な方法で研究に取り組んだ。米芾の著書には、現在もなお書の研究に益する内容を持つものが少なくない。書に
おいては魏晋を宗とし、王義之・王献之の名前にとらわれることなく、魏晋時代の書の本質を捉えようとして、自ら「平淡天真」という高い精神性を盛り込んだ。米芾の提唱した平淡天真の境地は、 明時代の董其昌らに大きな影響を与えている。
伝統的な書法を継承した蔡襄や米芾はもちろん、蘇軾や黄庭堅も、その理想とするところは王義之の書に代表される、晋人の響きの高い瀟洒な表現にあった。

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