天長2年3月30日(825年4月21日) 摂津国江南四郊を和泉国に属させる。(日本紀略)
江南四郊とは東生・西成・住吉・百済4郡で、これは難波宮や大阪城がある淀川と大和川の河口のデルタ地域全域、つまり大阪市のほとんどを占めるエリアです。
イメージとしては、大阪府から大阪市全域が堺市に移管され、大阪市役所は(兵庫県)尼崎市に移るくらいのもので、摂津国はほとんど骨抜きになります。しかし、そのわずか半年後(閏7月21日)に、摂津国に戻されました。
ざっくりですが、東生(ひがしなり)郡は、淀川以南の現在の大阪市旭区・都島区・城東区・東成区・生野区・天王寺区・阿倍野区の全域または一部にあたる南北に細長い地域。
西成郡は、東生郡の西側の海に面したエリア。住吉郡は、その南の住吉大社のある海に面したエリア。住吉郡の東側の内陸部が百済郡という感じです。
ここからは想像
半年で基に戻されるとはいえ、国の中心部をほかの国につけかえるとは、それなりの合理的な理由があったはずです。まして、わずか四半世紀前に大和川の上流の奈良の平城京から、淀川上流の京都の平安京に遷都したばかりです。淀川河口部は、より国家的にも重要度が高くなっているはずで、ふつうに考えれば、都のある山城国と隣接している摂津国から、都と隣接しなくなった和泉国へ移す意味がありません。
最も、合理的な理由は、地形が変わったことではないでしょうか?
考えられそうなのは、大和川の主流の河口が住吉大社より南だったのが、北へと大きく流路変更してしまい、淀川に直接リンクしたことでしょう。そうなると、大和川右岸は和泉国という原則からすれば、和泉国が広がるという杓子定規の決定も、ありえたのかもと想像しました。
国史大辞典や歴史地名体系などの辞書を見る限りでは、この謎は不明ですが、もしかしたら地理の方面では、とっくに解決されているかもしれません。
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