茶の湯展(京都国立博物館)の感想戦(その1)

茶の湯が日本の文化の柱であり、日本人の精神に大きく影響を与えていることは改めて言うまでもありません。一方で、茶の湯文化ほど、コロナで危機に陥った日本文化はほかに無いと言っても過言ではありません。京博の茶の湯展については、「これを逃したら、近い未来に茶の湯文化は消えてしまい(興行的に)2度と見ることができないのでは」との危機感から見に行きました。
「千利休が茶の湯を大成した」の「大成」を「創始」くらいに思っていたら、大間違い。平安時代まで遡る千年の茶の湯の歴史を網羅するスゴい展覧会でした。ざっくり千年分なので、後半の1階(会場は3階から2階、1階)あたりは正直、考えるパワーを失い、歩き切ることで精一杯ってな感じでしたが、東のトーハクの国宝展、西の京博の茶の湯展と、のちのち伝説となる2022年秋になるのではないでしょうか?

展示が時代順でなく、さらに展覧会の第何章とかもバラバラ(展示スペースの問題でしょうか?)で、ややこしいことこの上ないのですが、国宝を中心に見、つらつら浮かんだ感想を書いていきます。論ではなく感想文です。

全体を見て思い浮かんだ感想箇条書き

・精神カルチャーとしての茶の湯の原点は、元寇のあとの鎌倉時代から。

・お茶自体は平安時代から薬としてあったが、それは薬。現代、ロキソニンを飲む人がたくさんいても「頭痛薬」はカルチャーを生んでいない、ただの薬なことと同じ。文化と呼ばれるには思想が必要、それが禅宗。

・鎌倉時代に北宋がモンゴル(元)に滅ぼされて、中国から知識人、文化人(それらはみな僧侶であった。知識人でもある南宋の官僚は流石に国を捨ててまでは来れない)。

・自らの意思で来日した鑑真と違ってそもそも日本になんか来たくはなかった禅僧たちなので、日本語を覚えることもせず、中国語と(椅子など)中国のライフスタイルもそのまま持ち込んだ。

・現在までの日本での東洋絵画でのナンバー1画家は、牧谿(もっけい)。残っている作品は国宝か重要文化財。しかし、なぜ彼が評価されたかというと、日本に亡命した高僧たちの同僚(いわば幼なじみ)だったことが重要だった。絵画そのものの価値から純粋に選ばれたのではなさそう。

・滅んだ国に理想郷を求める矛盾した行為は、亡命禅僧にとっては、日本人相手にやりやすかった。答えを与えなければいいのだから。禅問答でそこに真理があると思わせれば勝ちだ。日本人の知らない中国語でイヤミナ言葉をさらさら書いて渡すと、みな首をかしげるが嬉しそうに受け取っていく。

・真理はあるが答えはなく、ヒントだけ。しかし、ヒントすら与えてくれない日本の朝廷公家たちと比較すると、中国亡命僧侶は同じように上から目線ではあるけど、金持ち武家たちにヒントや回答(答えは書いていない)は返してくれる。もちろん中国亡命僧侶は、親切心ではなく、スポンサーが武士たちだということが分かっていたからだ。

・仏教とは現代人にとって最新テクノロジーとイコール。古いテクノロジーよりも新しいテクノロジーのほうが価値が高くなる。飛鳥奈良のいにしえの仏教(もっとも飛鳥時代には最新テクノロジーだった)が古くなると、空海・最澄が密教を導入(平安時代)、密教もクラシカルになると、武士たちに金出せば手に入れることができる最新テクノロジー=iPhoneとして禅宗が広まった(同時並行で、だれでも格安で救われる浄土信仰=アンドロイド中華フォン)のが、鎌倉時代。

・しかし、鎌倉時代をへて室町時代になると、だんだんとスポンサー(武士)もちゃんとした答えがほしいと言ってくる。禅宗側もいつまでもうやむやにできないし、リアルな南宋を知っている亡命僧侶はもう過去の世代で、今いる禅僧たちは日本生まれの日本人。「なんでお前日本人なのに中国語でわけわからんことを手紙で書いてくるんだ!日本語で話せや!」などと武士から言われるようになったのでしょう。禅宗側も「やりましょう!答えを示しましょう」と。
・室町幕府は制度を含めて色々なことのバージョンアップをはかるが、アートもそのひとつ。
・室町将軍公認の「東山御物」とは、そうした新しい価値観の定義づけのひとつ。アートのランク付けなんて、武士が直接やっている暇も才能もないので、そこは禅宗のみなさん(同朋衆)に、諮問(丸投げ)をします。
・禅宗としては、当然ながらクラシックになった密教の美術を推したりはせず、自分たちの大先輩である亡命中国僧侶たちをアゲアゲにする。「僕のパイセンの知り合いにすごいアーティストいるんで。えっ?そうそうオナチュウ(同じ中学)ですわ」と言うことで、中国ではそこまで有名でなくても、亡命時にがさっと日本に大量に持ってきた作品群があるので、それをランクインさせます。
・一番は、もちろん滅んでしまった憧れの明王朝の名君で文化人の徽宗(きそう)皇帝!(知ってる!知ってる!ぱちぱちと室町幕府も納得)。さて、次にご紹介するのは、みなさんはまだ知らないでしょうけど、実は徽宗皇帝並みにすばらしい絵を描いた明末の「牧谿(もっけい)さん」を紹介します! どうです!すごいでしょう。(おお、そんなにすごいのか!すごいのか!しかも日本に大量に作品がある!それは幕府的にも、いろんなところに配りたいのでイイね!ぱちぱち)

・中国語話者によって持ち込まれた茶の湯文化は、禅宗という性質だけでなく、日本語と中国語の会話のずれもあって、より誤解と誇張を生むことになり、ありしひのローマ帝国や古代エジプトのような滅びし憧れの帝国の空想のかかやきをみせたのだった。

ここまでは、全体を見て、思い浮かんだ禅宗と茶の湯の受容について、自分が思いついたことを適当に書きつらねました。展覧会で上のような説明があるわけでは、決してありません。
次は、展示の内容について、だいたい展示順に感想を書いていこうと思います。長くなるので、また今度。

追記

この後、トーハクの国宝展を見て、南宋の禅宗は、キンキラなパリピだったんじゃないのか?との考えが浮かびました。

2期!「国宝 東京国立博物館のすべて」2期目で見たすべての国宝の感想戦

 

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