井伊直政はなぜ大出世できたのか。見た目だけでなくメンタルもイケメンだった

井伊直政(1561~1602)は「徳川四天王」の一人と言われ、徳川家康(1542-1616)の家臣では、最大の領地をもらった出世頭です。
江戸時代の幕府公式「戦国ガイドブック・徳川実紀」では「国初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき」(徳川幕府成立時にもっとも功績のあった人)と高く評価されています。

井伊家は、徳川の三河ではなく、遠江の武士(国衆)であり、簡単に大出世できるほどの家柄ではありませんでした。
直政は、家康の小姓でした。19歳年下で、ぶっちゃけショタとして美少年時代に愛されました。
かわいい恋人だから出世したと、ほかの徳川家の家臣にうらやましがられて、色々と中傷もされたようです。「お尻で大名になった」と。

家康は、東大資料編纂所教授の本郷和人さんが指摘しているようにロリコンです。

本郷和人「戦国時代のROE」(週刊新潮連載、2014年1月16日号)、『戦国武将の明暗』(新潮新書)にも収録。

ロリコンだけでなく、ショタだったわけですね!
大名になった家康は、ある意味でロリもショタも選び放題。ただ体の関係があったからって、その相手がさすがに何万石の大名に簡単に抜擢されるわけではありません。

では井伊直政の場合は、身体以外のプラスの要素とはなんだったのか、なにが具合がよかったのか。

そこには、現代に通用する出世術がありました!
イケメン、美女でなくても大丈夫!

なんと家康自らが直政のいいところを評価した資料があるのです。

直政より19歳年上の徳川家康

久保田昌希・駒澤大学教授が「家康を支えた家忠と直政」(『愛知県史のしおり通史編3中世2・織豊』、2018年3月)で紹介しています。

「彼は日頃言葉は少なく気重にみえるが、何事も決すれば直言してくれる。とくに自分達に何かしらの考え違いや評議内容に違いがでるような無意味なことは、他人のいないところで穏やかに忠告してくれる。従ってその後は何事も、まず直政に事前に相談する」(訳・久保田教授)

す、すごい。こんな対応なら、上司に重宝される。
しかも、イケメン(結局、それか!)

【原文】一 井伊兵部事、平日言葉少く、何事も人にいはせて承り居、気重く見へ申侯得共、何事も了簡決し候へは、直に申者にて候、取わけ我等何そ了簡違か評議違か、為にならぬ事は、皆人の居ぬ所にて物和らかに善悪申者にて候、それ故、後には何事も先、内相談いたし候様に成申候。

以下一部引用します。

 直政は関ヶ原の戦いに代表される卓越した交渉力をもち、判断力があり、敵をつくらない.敵を味方に変える性格だったとの指摘がある(野田浩子氏「井伊直政」戎光祥出版、二○一七年)。

(略)

直政については「寛永系図」記載の直政への家康による「開国の元勲」評がある。これに注目された野田氏は「寛永系図」を著した彦根藩士岡本宣就が、家康から直政への発言を聞き及んでいた可能性が高く、その意図を「開国の元勲」と漢文体で端的に著したものとされた(同氏前掲書 *注 野田浩子氏「井伊直政」戎光祥出版)。ここではさらに、家康が慶長十七年(一六一二)二月二十五日付けで将軍秀忠夫人の浅井氏に認めた訓戒状に注目したい。これはかって徳川黎明会会長をつとめられた故徳川義宣氏が紹介されたもので(『新修徳川家康文書の研究」吉川弘文館一九八三年)、家康が自ら筆をとったものされている。全十七箇条であるが、このうち第九条にはつぎのようにある。

一 井伊兵部事、平日言葉少く、何事も人にいはせて承り居、気重く見へ申侯得共、何事も了簡決し候へは、直に申者にて候、取わけ我等何そ了簡違か評議違か、為にならぬ事は、皆人の居ぬ所にて物和らかに善悪申者にて候、それ故、後には何事も先、内相談いたし候様に成申候。

ここでは家康は直政について、「彼は日頃言葉は少なく気重にみえるが、何事も決すれば直言してくれる。とくに自分達に何かしらの考え違いや評議内容に違いがでるような無意味なことは、他人のいないところで穏やかに忠告してくれる。従ってその後は何事も、まず直政に事前に相談する」といっている。
これが家康自ら示した直政への評価であり、本条からは家康の直政に対する全幅の信頼感が伝わってくる。直政の具体的な人物像として、これ以上のものはおそらくないであろう。

久保田昌希「家康を支えた家忠と直政」(『愛知県史のしおり通史編3中世2・織豊』、2018年3月)より

『国史大辞典』の井伊直政(いいなおまさ)からも参考に引用します。

 一五六一 - 一六〇二
安土桃山時代の人、徳川家康の武将。幼名万千代、天正十年(一五八二)七月ごろから兵部少輔と称した。永禄四年(一五六一)二月十九日、遠江国引佐郡祝田村(静岡県引佐郡細江町)に生まれる。父直親、母奥山親朝の女。同五年父が讒により今川氏真に殺され本領井伊谷(いいのや、静岡県引佐郡引佐町)を奪われたので諸国を流浪し、天正三年浜松で家康に仕え井伊谷の地を与えられた。その後武田氏との戦いに功を立て、同十年六月本能寺の変で家康が伊賀越で帰国した時、ともに危難を凌ぎ、翌七月家康の甲州経略の際、武田の遺臣らの招撫のため活動し、同十月徳川・北条の講和にも参画し、家康から武田遺臣を多く付属させられた。同十二年小牧・長久手の戦、十三年信濃上田の真田昌幸攻撃に参加し、十四年豊臣秀吉が家康の上洛を促すため母大政所を岡崎まで遣わした時、本多重次とともに大政所を送って大坂に至り、秀吉に謁見した。十六年四月、聚楽第行幸の時、家康の供をし従五位下侍従となった。同十八年小田原征伐にも転戦して功が多く、家康の関東入国とともに上野箕輪城(群馬県群馬郡箕郷町)十二万石を与えられた。同十九年陸奥の一揆の鎮定にも蒲生氏郷に加勢し、文禄元年(一五九二)朝鮮の役には江戸留守居役を勤め城の普請を司った。慶長三年(一五九八)箕輪から城を和田に移し高崎と名付けた。同五年関ヶ原の戦には本多忠勝とともに東海道方面諸軍の監軍となり、関ヶ原の戦場では退却する島津義弘軍を追撃してその子豊久を討ち取ったがその時鉄砲で負傷した。しかし石田三成の本拠近江佐和山城の攻略、毛利輝元の降伏の斡旋、長宗我部盛親の土佐一国の受取りにも功を立て、佐和山城十八万石を与えられ、翌六年従四位下に進んだが、同七年二月一日、関ヶ原の戦傷が再発して彦根で没した。四十二歳。彦根の清凉寺に葬られ、法号清凉泰安祥寿院。武略とともに政略にも秀でた家康覇業の功臣で、上野・近江の新領地の民政にも優れた治績を示した。
[参考文献]
『寛政重修諸家譜』七六〇、『井伊家譜』、『彦根市史』上、中村孝也『家康の臣僚』武将篇
(伊東 多三郎)

 

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