元・お坊さんの名京都所司代 板倉勝重がキリシタンに寛大だった意外な話

京都・二条城の北大手門(重要文化財)。この門の北側に京都所司代があった

【祝日の午前 京都・堀川通り沿いのカフェ】

(窓際の席で、二人がアイスコーヒーを飲んでいる)

サキ:「ふぅ〜、堀川通りって思ってたより長いんだねぇ。西本願寺から二条城まで歩いた歩いたぁ」

エミ:「お疲れさま。でも、これから行く二条城が本番よ。ところで、今日4月29日って、実はこの堀川通りと二条城にゆかりのある人の命日なのよ」

サキ:「ええっ、そうなの?誰々?」

エミ:「江戸時代初期の板倉勝重。寛永元年——つまり1624年の今日、京都堀川の邸で亡くなったの。享年80だったのよ」

サキ:「いたくら……かつしげ?ごめん、全然知らない……(こっそりスマホで検索)」

エミ:「ふふ、知らなくて当然。でもこの人ね、徳川幕府の京都所司代として超有名な名行政官なの。しかも経歴がめちゃくちゃ面白いのよ」

サキ:「面白い経歴って?」

エミ:「元・お坊さん」

サキ:「は??」

第1章 元・禅僧が徳川の重臣に? 異色すぎる経歴

エミ:「板倉勝重はね、1545年に三河国額田郡——今の愛知県岡崎あたりで生まれたの。板倉好重っていう武士の子なんだけど、幼い頃にお寺に入れられて、玉庵和尚の弟子になるの」

サキ:「え、武士の子なのにお坊さんに?」

エミ:「次男以下だと、よくあるパターンなのよ。家督は長男が継ぐから、それ以外は出家させたり養子に出したりするの。勝重は香誉宗哲こうよそうてつって法名で、30代半ば過ぎまでお坊さんやってたの」

サキ:「30代半ばまで!?けっこう本格的にお坊さんしてたんだ」

エミ:「そう。でも天正9年(1581年)に転機が来るの。第二次高天神城の戦いで家康と武田勝頼の死闘が展開された年だったわ。父・好重と、家を継いでた弟・定重が、両方とも戦死しちゃうの」

サキ:「うわぁ……戦国時代の悲しさ……」

エミ:「で、跡継ぎがいなくなっちゃって、徳川家康が『お前還俗して家継げ』って勝重に命じるわけ」

サキ:「ええっ、お坊さん辞めて武士に戻るの!?そんなんアリなの!?」

エミ:「アリなのよ、当時は。で、これがすごいんだけど、勝重ってお坊さん上がりなのに、めちゃくちゃ行政能力が高かったの」

サキ:「(こういうとき、エミちゃんって本当に楽しそうだなぁ)」

エミ:「天正14年に家康が駿府に移ると、その町奉行になるの。天正14年は時代の大転換の年で、この年の2月に羽柴秀吉と家康が和議して、5月には秀吉の妹の朝日姫と結婚するの」

サキ:「あっ、大河ドラマ豊臣兄弟の『あさひ』だね」

エミ:「そうよ、妹と結婚するけど、実質的に家康は秀吉に臣従したのよ。10月に秀吉は「豊臣」秀吉になり、文字通り天下人に。12月に、家康は遠江の浜松城から駿河の駿府城へと本拠地を移すことになったの。板倉は、その時に駿府の町奉行となったわけ。天正18年の関東移封のときには江戸町奉行ならびに関東代官に抜擢。江戸の町を最初に整備した功労者の一人なのよ」

サキ:「江戸町奉行って、あの大岡越前とかのご先祖的なポジションってこと?」

エミ:「ご先祖というか、『町奉行』っていう職そのものを作っていった世代ね。すごいよね」

エミのメモ📝

還俗(げんぞく)=出家していた人が再び俗人に戻ること。戦国〜江戸初期にはわりとよく見られた現象で、跡継ぎ問題で兄弟が次々亡くなった場合、お寺に出されていた弟が呼び戻されるパターンが多かった。超有名な例では、室町幕府の最後の将軍の足利義昭も、兄が殺されて、急遽、お坊さんから将軍へ転身しました。

第2章 京都所司代として『公家諸法度』を打ち出した男

サキ:「で、京都所司代ってのには、いつなったの?」

エミ:「関ヶ原の合戦の翌年、慶長6年(1601年)に京都奉行として赴任して、慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任命されたタイミングで、正式に京都所司代に就任したと考えられてるの」

サキ:「京都所司代ってどんな仕事?」

エミ:「ざっくり言うとね——」

サキ:「(早口モード来るな……)」

エミ:「(早口で)朝廷の守護、公家・門跡の監察、京都市中の法制・裁判、五畿内・丹波・近江・播磨の8カ国の公事訴訟、京都・奈良・伏見奉行の統轄——」

サキ:「ストップストップ!要するに京都の知事みたいな?」

エミ:「そうね、でももっと広域の関西全域の官僚トップって感じかな。江戸時代になると京都所司代は大坂城代と並ぶ重職で、席次は老中の次。代々ここから老中に昇格していくのが王道コースになっていくのよ」

サキ:「めちゃくちゃ重要なポジションじゃん……」

エミ:「で、勝重の在任中の最大の功績がね、慶長14年(1609年)に起きた猪熊事件の処理なの」

サキ:「いのくま事件?」

エミ:「宮中で官女と公家衆が集団で密通してた事件よ。大スキャンダル!」

サキ:「うわぁ……平安時代じゃないんだから……」

エミ:「これを勝重が適切に処理したことで、徳川幕府が朝廷を検察する権限が一気に拡大するの。大義名分を得たってことね。そして勝重自身も山城・近江で9860石を加増されて、合計1万6千余石の大名に晴れてランクアップ」

サキ:「お坊さんから始まって、とうとう大名に!? 出世スゴすぎない?」

エミ:「で、ここからが彼の官僚、そして政治家としての真骨頂よ。慶長17年(1612年)から、金地院崇伝こんちいんすうでんと組んで、公家諸法度とか勅許紫衣法度とか諸寺入院法度とか、立て続けに公家・寺社を縛る法令を打ち出していくの」

サキ:「お寺の裏も表も知り尽くした現役のお坊さんと元お坊さんがタッグを組んだんだ。で勅許紫衣ちょっきょしえって……?」

エミ:「お坊さんに『紫の衣を着てよし』って天皇が許可を出すこと。最高の名誉だったんだけど、これに幕府の事前承認が必要になっちゃったの」

サキ:「えー、それって朝廷からしたらメンツ丸つぶれじゃん」

エミ:「そう。で、これが後の紫衣事件——後水尾天皇が譲位を決意することになる大事件の伏線になっていくの」

エミのメモ📝

勝重がベースを作った京都所司代を、息子の板倉重宗が元和6年(1620年)から34年間務めて、京都の幕府支配を完成させます。父子合わせて50年以上、京都を統治した板倉家は、まさに「京都所司代の代名詞」的存在になりました。

第3章 意外!キリスト教に寛大だった元禅僧

サキ:「ねぇエミちゃん、ここまで聞くと勝重って『朝廷やお寺を締め付けた人』っていうイメージなんだけど」

エミ:「うん、それはまさにその通り。でもね、もうひとつ意外な顔があるの」

サキ:「なになに?」

エミ:「キリスト教に寛大だったのよ」

サキ:「ええーーっ!? 江戸幕府ってキリシタン弾圧でめちゃくちゃ有名じゃん!?」

エミ:「そうなのよ。でも勝重は、慶長18年(1613年)までは保護政策をとっていたって記録があるの」

サキ:「保護!? 弾圧じゃなくて!?」

エミ:「家康が直々にキリシタン禁制を始めたのが慶長17年(1612年)。翌年の慶長18年には『公家衆法度』も発布されて、徳川政権の覇権総仕上げの段階に入るんだけど——その直前まで、京都所司代の勝重自身はキリシタンに寛大だったってことになるの」

サキ:「それって……元お坊さんだから、信仰には理解があったのかな?」

エミ:「ここからは資料に明記されてないから妄想再現ドラマとして聞いてほしいんだけど」

サキ:「出た、エミちゃんの妄想再現ドラマ!」

エミ:「30代半ばまで禅僧として宗教の世界にいた勝重にとってね、信仰を持つ人を頭ごなしに弾圧するっていうのは、感覚的に抵抗があったんじゃないかなって。寺院という組織体については、がちがちにコントロールする仕組みを作ったけど、仏教徒として、別の宗教を信じる人の心も少しはわかったのかもしれない——っていう想像ね」

サキ:「あー、なんかわかる気がする。腐敗した組織を根本から改革しようとしても、そこに所属する一人ひとりに対しては寛大な人じゃないと、改革を実現できないものよね。なんか、板倉さんの好感度あがったかも」

エミ:「おっ、さすがサキちゃん鋭い……そうなの、勝重の場合、京都の市民への善政もすごく評価されてるの。徳川氏の恩顧を示す意味で、町人にも公平な裁きをしいたっていう」

サキ:「行政官としての判断としても、いきなり弾圧したら治安悪化するもんね」

エミ:「うん、キリシタン信徒は京都の町衆や商人もたくさんいたから、いきなり弾圧モードに入ると経済も社会も混乱する。元禅僧の宗教観と、現実主義の行政官の判断、両方が働いてたんじゃないかしら」

サキ:「でも結局、慶長18年以降は禁教に切り替わったってことは、家康の方針には逆らえなかったんだ……」

エミ:「そう。組織人としての限界はあった。でもギリギリまでキリシタン信徒を守ろうとした所司代がいたっていうのは、覚えておいていい話だと思う」

第4章 堀川の邸で迎えた80歳の最期

サキ:「(窓の外を見ながら)この堀川通りのどこかに、勝重の屋敷があったってことかぁ」

エミ:「どこかというか、目の前の二条城のすぐ北よ。京都所司代は二条城の北に隣接していたの。屋敷もその一角だったと考えられるわ。徳川家光が3代将軍に就任した翌寛永元年(1624年)4月29日、勝重は80歳でこのあたりでこの世を去ったの。キャリアの前半は僧侶として、そして戦国時代から江戸時代へ移っていく中で、ある意味で武将よりも重要だった稀有な行政官として、駿河町奉行、江戸町奉行、京都所司代を務めあげたの。息子の重宗にバトンを渡してから、4年後の死去ね」

サキ:「まさに時代のバトンを次世代に渡して、立つ鳥跡を濁さず、って感じだね」

エミ:「戒名は長圓院殿損舘四品前拾遺伊賀大守傑山源英居士。菩提寺は出身地の三河の長円寺(愛知県西尾市)だけど、供養塔が京都市北区の光悦こうえつ寺にもあるのよ」

サキ:「光悦寺!? あの本阿弥光悦の?」

エミ:「そう。光悦寺がある鷹峯たかがみねは、家康が光悦に与えた土地で、当時は芸術家村みたいになってたの。そこに勝重の供養碑があるってことは——」

サキ:「勝重と光悦って、何かしら接点あったってことだよね?宗派が同じだったのかな?」

エミ:「ところが光悦は熱烈な日蓮宗で、勝重は禅宗の曹洞宗よ」

サキ:「ここにも、ほかの宗教に寛大だったことが関係してそうだね」

エミ:「そうね、勝重の宗教心については今度詳しく調べて見るけど。光悦に鷹峯の土地が下賜されたのが元和元年(1615年)。所司代として勝重も関わってたはずよ。京都の文化人とのネットワークもしっかり築いてたのね」

サキ:「元お坊さん、町奉行、所司代、キリシタンに寛大、文化人とも交流——板倉勝重さん、めちゃくちゃ多面的じゃん!」

エミ:「教科書ではほとんど名前だけしか出てこないけど、掘るとものすごく人間味のある名行政官なの。今日4月29日は、ぜひ覚えておいてほしい命日よ」

サキ:「うん、堀川通りを歩くたびに思い出しそう」

🎵 プレイリスト会議

サキ:「で、今回のテーマ曲どうする? これから二条城があるから、1曲ずつにしようか。元お坊さんで、行政官で、キリシタンに寛大で——テーマ盛りだくさんだよ」

エミ:「悩むわね……。私はね、ヨルシカ「だから僕は音楽を辞めた」を推すわ」

サキ:「うわ、なんか、わかる!」

エミ:「『辞めた』ってタイトルだけど、この歌って、一度離れたものへの未練と、それでも別の道を歩む覚悟が描かれてるよの。お坊さんを辞めて武士に戻った勝重の心境って、こんな感じだったのかなって」

サキ:「一度しっかり浸かった世界から離れるのって、ただの転職じゃないもんね」

エミ:「サキちゃんは?」

サキ:「私はね、遊佐未森の『暮れてゆく空は』をチョイスするよ」

エミ:「紆余曲折あって80歳の天寿を全うした人にふさわしい壮大な歌ね」

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