天正元年9月1日(1573年9月26日) 北近江の小谷城主・浅井長政が織田信長に攻められて城内で自刃。前日の8月29日(この年は小月のため8月30日はなく翌日は9月1日)に父親で先代の浅井久政が城内で自刃していた。
『信長公記』では久政が8月27日、長政28日自刃とされているが、8月29日付で長政が部下に「籠城してくれてありがとう」という書状(お茶の水図書館蔵)があることや、浅井家の菩提寺の徳勝寺旧蔵浅井長政像賛の記載から、信長公記の日付が誤りと判明している。
この時に、妻のお市(信長の実妹)との間に生まれた浅井三姉妹(茶々=のちに秀吉の側室淀君、初=のちに京極高次の妻、江=のちに秀吉の甥の豊臣秀勝の妻、徳川秀忠の妻)は脱出して、信長方に保護された。浅井長政の長男(母はお市かは諸説ある)の万福丸(当時10歳)は捕まり、関ヶ原(岐阜県)で処刑された。
なお、落城に際して小谷城が炎上したように大河ドラマ「お江」では描かれたが、発掘調査では焼けた跡は一切なく、炎上はしていなかったことが判明している。
◇MVにしました
浅井長政とお市との結婚はいつか?
お市がいつ輿入れしたかは、3つの説があり、確定していない。
大前提として、浅井長政には前妻がいた。
父の久政は南近江の大名・六角義賢に事実上、屈服していたと考えられいる。というのも、長政が1559年(永禄2年)1月に15歳で元服した際に、義賢から一字もらって「賢政」と名乗っているからだ。その時、六角氏の家臣の平井定武の娘を妻としている。(六角氏の家臣扱いされていたことがわかる)
ところがその年の4月に、平井の娘と離縁している。これは六角氏との敵対を意味し、翌年1560年8月に六角氏と野良田(滋賀県彦根市)で戦闘して勝利している。
そして1561年5月頃に、浅井義賢から浅井長政へと名をあらためている。
これは1560年の桶狭間の戦いで織田信長によって今川義元が戦死したことで、松平元康(義元から義の一字をもらっていた)が今川から独立して松平家康に名を改めたことと同じ現象である。
そして、なぜ「長」に変えたのかについて、太田浩司氏(元長浜市歴史博物館館長)は『浅井長政と姉川合戦』で、「織田信長の一字と解すことができる。浅井長政の改名は、長政と信長の妹・市との婚儀、すなわち浅井ー織田同盟の成立による改名であったと、私は理解する」「長政と改名した永禄4年(1561)頃は、六角氏との戦闘のため、新たな勢力との同盟を模索していた時期でもあり、長政の「長」は、婚姻により同盟を結んだ信長の「長」を受けたものと考えられる」としている。
ちなみに、この頃、六角氏は美濃の斎藤氏(信長と敵対)と同盟を結んでいたので、南近江ー美濃同盟に対抗して、北近江ー尾張同盟を結ぶのは自然である。
このように
1.1561年(永禄4年)説
2.1564年(永禄7年)説
3.1567年(永禄11~12年)説
の3つの説がある。大河ドラマなど最近のフィクションでは3の1567年説が採用されることが多い。しかし、1・2と3では二つの意味で大きな違いが生まれる。
一つは、長政の長男で10歳で処刑された万福丸の生年が1564年(永禄7年)であること。3の場合は、万福丸の生母はお市ではなくなるのだ(初婚の平井の妻が母でもない)。
そしてもう一つがさらに重要である。
1568年に信長は足利義昭を奉じて上洛し、途中で六角氏の居城の観音寺などを落城させている。3の場合は、信長の上洛は、お市を浅井長政に嫁がせたことで実現したという布石になる。3のタイミングは最もドラマチックではあるが、少し考えるとかなりおかしいことがわかる。
浅井長政は15歳で最初の妻と1559年に結婚して3か月後に離縁して、子はいなかった。
お市との間に少なくとも3人の娘を産んでいることから、女嫌いや上杉謙信のように宗教上の理由ではありえない。すると、15歳から23歳までの間に、独身だったということは、戦国大名としては極めて不自然である。
また万福丸は、この独身時代に、母親の名前が一切残らない女との間の息子であり、後継者であるとなり、これも戦国時代の常識からはありえない(現代の感覚ならありえるのだが、それがかえって問題である)。
そこから考えると、ドラマで描かれがちな3のタイミングは一番可能性が低く、1もしくは2つまり、万福丸の実母はお市だったと考えるのが、蓋然性は高い。
そして現代の感覚ならあり得ないのだが、信長が甥っ子である万福丸を処刑し、娘たちは生存させたことは、当時としてはむしろ自然な選択である。
とは言え、「長政」の「長」が信長からもらった一字というのも、簡単に納得がいくものでもないのも事実だ。
仮にも北近江の大名である。三河の大名となった家康が元康から「長康」ではなく、「家康」だったように、1560年に義元を討ち取ったとはいえ、信長はまだ尾張全土すら完全制圧していなかった(犬山城など)。
この時期に信長から一字もらったのが、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主役である豊臣秀長(秀吉の弟)である。この頃は木下長秀であった。つまり、この頃の信長は、家康はおろか、秀吉にすら、名前の一字をあげられていないというおが実情だった。
信長が犬山城を落として尾張完全制圧したのが1564年(永禄7年)、岐阜城を攻略して美濃を征服したのが1567年(永禄10年)であることからすると、長政の改名の理由は、とにかく六角氏の「賢」の字を変えたかったことが一番であり、信長の字と重なったのは偶然なのではないだろうか。
そして、お市の婚姻は、尾張全土の制圧を終えて、本格的に美濃斎藤氏との対決に臨む、2の1564年が最も可能性が高そうだと考えている。
参考文献:太田浩司『増補版 浅井長政と姉川合戦ーその繁栄と滅亡への軌跡』(サンライズ出版、2023年)


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