KGBの前身ソ連の秘密警察組織「NKVD」とは?自国民数百万人を粛正したスターリン秘史、ネイマーク著『スターリンのジェノサイド』の書評とまとめ

スターリン時代、つまり1930~1940年代のソヴィエトには、秘密警察組織があった。
NKVD(内務人民委員部)だ。KGBの前身組織である。
アメリカ人のスタンフォード大教授でロシア・東欧史が専門のノーマン・M・ネイマーク、根岸隆夫訳『スターリンのジェノサイド』(2012年、みすず書房)をもとに、NKVDの動きを年表としてまとめてみた。
同書は2010年に原著が出た。ドイツ語版では「スターリンジェノサイド」との題名に変えられており、ドイツを中心に欧米では、ヒトラーのジェノサイド(ユダヤ人虐殺)は「特別で比類ないもの」という考えが、とくにマスコミや知識人に根強いという。(訳者あとがきから)

スターリンが自国民たちを大量に粛正したことは知られている。
反革命的と称して、政治犯、少数民族、そしてスターリンの政治的なライバルをも「消した」。
その数は、およそ110~120万人のソヴィエト市民が処刑、600万人が特別移住地へ強制移送され、そのうち150万人が「早すぎる死」にみまわれた。1930年代から1953年までに、1600~1700万人が強制労働収容所に監禁された。
さらにこれらの数字に、ウクライナ大飢饉、ポーランド人、バルト3国人、チェチェン人などの少数民族の虐殺と処刑の犠牲者を加えなくてはならない。その数は300万~500万人にものぼるという。<#143~144ページ、ネイマーク前掲書>。これは、ナチスがユダヤ人600万人を殺した「ジェノサイド」に匹敵する、というのが著者のネイマークの主張だ。
その「虐殺」の手足となったのが、秘密警察NKVDだ。

スターリンとNKVDはだれでもが潜在的に危険なのだと自分自身と自分たちの仲間に納得させることができた。逆説的だが、陰謀と見えなければ見えないほど、それはいたるところに存在することになった。[#115ページ、ネイマーク]

コンテンツ

ソ連の秘密警察とスターリンの虐殺の年表

1929年後半~1932年 共産党やOGPU(合同国家政治保安部、NKVDの前身)がクラーク[#ロシア語で「拳骨」、ケチな人たち、つまり富農または革命に賛同しない保守的な人たち]1000万人を家から追い出し200万人を極北とシベリアに強制移住させ、約3万人を処刑。一方、農民たちも蜂起し、共産党員のチームやOGPU支隊を襲撃する「大衆行動」を起こす。[#64,66ページ、ネイマーク]
1931年3月15日 OGPUが全農業地域からクラークを強制移住させて追い出す覚書を出す。[#63ページ、ネイマーク]
1932年―33年 国内旅券制度の導入で、国民を区別
1932年 OGPUの推定では、この年、クラーク強制移住者は全体の約3割近い約50万人が特別移住地で死んだか、そこから逃亡した。[#67ページ、ネイマーク]
1932年ー33年 ウクライナ大飢饉(ロシア、ベラルーシ、カザフスタンなどソ連全般でも飢饉)
1932年2月 ロシアとウクライナ国境を封鎖していたOGPUの部隊は、過度な徴発で飢餓状態になっていたウクライナの村々から逃散した22万人のウクライナ農民を逮捕、そのうち19万人を村に追い返し、残りはグーラグに送った[#80ページ、ネイマーク]
1932年8月 穀物あるいは酪農・肉製品のわずかな窃盗であっても死刑か強制移住で処罰する、国家財産・集団財産の盗みを罰する法令を整備
1932年-33年 この2年だけで25万人の農民が流刑地で死んだ[#76ページ、ネイマーク]
1932年-33年 西部に住む50万人(15万家族)のポーランド人とドイツ人が粛正(「浄化」)。ドイツ人作戦では、ドイツ人だけでなくドイツ企業につとめたことのある非ドイツ人を含めて6万8000~6万5000人が逮捕され、うち4万3000人が死刑。[#91-92ページ、ネイマーク]ドイツ、ポーランドなどの民族狩り作戦全体では、35万人が逮捕され、うち24万7000人が銃殺された。[#94ページ、ネイマーク]
ポーランド人は、あるNKVDの職員の言葉を借りれば「完全に壊滅」される運命にあった。スターリンはNKVD長官エジョフのポーランド人にたいする残忍な行動を喜んだ。「でかした!」とスターリンはポーランド人作戦の初期段階についてのエジョフの報告に書き込んだ。(略)結局およそ14万4000人がポーランド人狩り作戦で逮捕され、そのうち11万1000人が銃殺された。ポーランドとポーランド・スパイのソ連への現実の危険がどんなものであったにせよ、NKVDはスターリンのポーランド憎悪感を斟酌して行動した。[#93ページ、ネイマーク]
1934年 内務人民委員部「NKVD」が設立、OGPUの機能を吸収。NKVDはソヴィエト市民の権利をいつでも停止できた。
1935年~36年 この2年間だけでNKVDは80万人を「有害分子」としてソ連の重要な都市から排除し、流刑地「グーラグ」に送った。[#73ページ、ネイマーク]
1936年 社会主義の勝利、階級闘争の終焉、新ソヴィエト男女の創造を掲げる新ソヴィエト憲法
1936年9月 エジョフがNKVD新長官に。エジョフは拷問にみずから加わったことで知られている。
1937年~38年 大粛正。NKVDは約157万5000人を逮捕、そのうち68万1692人が処刑され、残りは流刑に。[#118ページ、ネイマーク]
1937年1月27日 レーニンのお気に入りだった「党の寵児」ブハーリン逮捕。
1937年3月31日 NKVD前長官のヤゴダが逮捕。
1937年12月 NGVD新長官エジョフは「わがソヴィエト人民は全労働者の唾棄すべき敵である大資本家の唾棄すべき奉仕者を最後の一人まで抹殺する」と選挙運動で演説[#117ページ、ネイマーク]
1937年7月 00447号命令が布告され、NKVDは、まだ都市や町に残っていた有害分子をグーラグに逮捕、追放、処刑した。
上部から下される命令には、各地方での逮捕者数の枠の設定と、逮捕・追放が遅滞なく実行されるように、NKVDと党専従者の派遣が盛りこまれていた。最初の命令で26万8950人が逮捕の対象となり、そのうち7万5950人が銃殺され、19万3000人が収容所送りとなった。しかし、これにつづく命令(たとえば00486号命令はポーランド国民を対象とし、00485号命令はいわゆる反革命主義者の妻の逮捕を許可するものだった)のせいで、浄化運動の時間枠と逮捕者枠の双方が広げられた。00447号命令の公式最終合計では、三人組審判(トロイカ)で裁かれたのは76万7397人、うち38万6798人が銃殺されている。(略)最近の公文書の調査で、1936年の新ソヴィエト憲法、1937年の最高ソヴィエト選挙、00447号命令、住民のなかの「反社会的」分子と人民の敵とされた人びとにたいする攻撃が、すべて互いに関連があることが証明された。[#74ページ、ネイマーク]
1937年12月 憲法を批准するために最高ソヴィエト選挙
1938年 スターリン、ポーランド共産党を完全解体し、その指導者を銃殺か流刑に。平党員も流刑に。ポーランド出身でNKVDの源流となる初期の秘密警察「チェカ」の創設者のフュリクス・ジェルジンスキーに採用されたNKVD所属のソヴィエトポーランド人の多くもこの時期に粛正、大半は銃殺された。[#93ページ、ネイマーク]
1938年11月 ベリア(3代目長官)は事実上、エジョフからNKVD長官の座を奪い、エジョフ配下を粛正していった。
1940年2月 ドイツ共産党員約570人が、ポーランドが滅び新たな独ソの国境となったブレスト=リトフスクで、ナチスに身柄を引き渡された。その多くはドイツの監獄や強制収容所で死んだ。[#73ページ、ネイマーク]

1940年3月5日 政治局決議、特別NKVD三人審判(トロイカ)があらかじめ決めたポーランド将校たちの銃殺を承認。[#98ページ、ネイマーク]
1940年4月 捕虜のポーランド将兵2万人以上を処刑する「カチンの森の虐殺」
1940年4月にNKVDの三大戦争収容所、コゼルスク(スモレンスクの東)、オスタシュコフ(カリーニン・トヴェルの近く)、スタロベルスク(Iハリコフの近く)とさらに西ウクライナと西ベラルーシの数カ所に拘禁されていたポーランド将校たちとその他は、トラックで人里離れた森と野原に連行され、後頭部に拳銃弾を一発撃ち込まれて処刑され、集団墓地に埋められた。一部はNKVDの施設内で殺された。ソヴィエトのために働くことをNKVD訊問官に納得させた少数の者だけが銃殺をまぬがれた。1943年の早春、ナチスはカチンの森で約4400人の犠牲者の墓を発見し、この殺戮を反ソ宣伝目的に利用しようとした。だが、スターリンとその配下は、このドイツの主張がナチスのでっちあげだと西欧連合国に信じこませることができた。[#98ページ、ネイマーク]

1940年8月 NKVD工作員がメキシコでトロツキーの頭をアイスピックで刺して暗殺。
1940~41年 NKVDが、ソ連占領期のラトビア、リトアニア、エストニアのバルト3国で市民の殺害と強制移住を行う

ラトヴィア人、リトアニア人、エストニア人は独立回復後に不愉快な歴史的現実を無視するきらいがあった。それは自分たちの同国人の共産党員とNKVD将校が強制移住、クラーク弾圧、「森の兄弟」とその支持者の掃討に時として直接責任があったからである。(略)
バルト諸国でおそらくもっとも名高いジェノサイドの事件は、尊敬された初代エストニア大統領レナルト・メリの従兄が1949年3月にヒーウマ島からシベリアへ251人のエストニア人を強制移住させたことを2008年5月に裁いた事件である。強制移住者のうち43人が移住地で死んだ。第二次大戦でソ連英雄の勲章を受けた最初のエストニア人だったメリは、ただ命令を実行したにすぎないとして無罪を申し立てた。裁判の結審を待たずに2009年3月に、メリは死んだ。ロシア大統領メドヴェジェフはこの人物に死後、戦時の功労をたたえて勲章を贈った。[#30-31ページ、ネイマーク前掲書]

残忍さを「効率化」したNKVD

エジョフは被告の家族をも叩きつぶす決意だった。かれは「断罪された裏切り者の妻全部を監禁」し、15歳以上の子供全部「社会的危険分子」として逮捕する命令を出す。[#117ページ、ネイマーク]と、江戸時代もびっくりの恐怖の連座制である。

「トロイカ」(三人組審判)と「ドヴォイカ」(二人組審判)はNKVD、司法省、党の代表からなる大急ぎでつくられた地方司法組織だが。NKVDは連行されてきた人びとを「裁く」仕事を迅速かつ効率的にこなした。ある推計によると80万人が16か月にわたって月5万人の割合で処刑された。言いかえると、500日近くつづけて、1日に1700人が処刑された。これがことごとく最高機密として実行された。犠牲者は、近くのNKVD管理下の森に連行されて銃殺され、無名の集団墓地に埋められた。死刑執行人たちはほぼ全員がNKVDの将校だったが、このできごとについて一切口外を禁じられ、見たこと、したことを「忘れる」よう命じられた。[#120ページ、ネイマーク]

無実の罪をでっち上げる

NKVDの幹部職員たちは、エジョフとスターリンに認めてもらおうと、たがいに張り合って無謀な競争をくり広げ、計画に盛られた以上の「敵」を逮捕し、処刑した。定期的にかれらはエジョフに自分たちのノルマの人数、とくに処刑すべき「第一種」に分類される人数を増やす許可を求めた。NKVDが捕まえた人たちのごくごく少数しか、国家にたいする犯罪をほんとうには犯していなかった以上、連座した人びとの輪を広げるのはやさしかった。[#120ページ、ネイマーク]

なぜそれほど多くの政治家・軍人を粛正したのか

いくらなんでも、殺しすぎだろうと。疑問に思ったが、その答えは、世代交代という。

今日では、この説よりも筋が通っているのは、スターリンが地方の国家・党の有力者に揺さぶりをかけようと望み、ある者は殺し、その他の者は流刑にし、そしてもっと自分に従順な新しい若い幹部世代に交代させた、とする説である。
地方であれ首都であれ、粛正は揺るぎない権力を求めるスターリンの必要に合致した。スターリンにとっては、周りに古参ボルシェヴィキが多すぎた。この革命の古参兵たちは自分たちの地位と特権を当然のことと思っていたから、スターリンの指導権あるいはすくなくともかれの政策に挑戦するかもしれなかった。(略)スターリンとNKVDは、社会のあらゆるレベルで密告、逮捕、裁判を推奨した。だれもが仮想敵をみつけだし抹殺する役割を担った。このように住民は動員されて、新ソヴィエト社会を創るドラマから市民がだれ一人取り残されない制度に参加するよう教えられたのである。[#120ページ、ネイマーク]

興味深く示唆に富んでいるのは、スターリン主義の1930年代にソ連の生活がどのようだったかを想像してみると、人びとはそれまでどおりの暮らしをつづけていたことだ。娯楽映画が制作されて観衆を集め、劇場公演は熱心な観客で埋まり、青年男女は集団文化体操の行進に参加し、人びとはソヴィエト飛行士と北極探検家の打ち立てた記録に驚嘆したという。

「生活はよくなった、同志たち」とスターリンは1935年に書いた、「生活は楽しくなった」。そしてこれはたんなるレトリックではなかった、すくなくともエリートに属する人たちにとっては。ソヴィエト・ジャズは熱狂的に歓迎され、スイング・ダンスが大流行した。銀幕では喜劇ミュージカルが主流だった。[#108ページ、ネイマーク]

ネイマークは「エリートに属する」としているが、実際には、むしろ非エリートたちが「市民扱い」されて、国造りのドラマの主人公の一人になれたという面もあったのではないだろうか。家柄もない市民たちは、安心して上級国民を告発できたのではないか。

スターリンの狂気には方法論があった。住民にたいするNKVDの攻撃は、どれもが手当たり次第だったのではない。ロシア人最初の粛正史家オレグ・フレヴニクの著作が証明したように、来歴と家系が重要だった。古参ボルシェヴィキ、その仲間、家族、交際相手、友人がNKVDとスターリンの手にかかった。赤軍高級将校、それからとくに内戦に参加し、ソヴィエト権力の立派な創立者と自負し、独立心のある人びとがそうだった。(略)しかしここでも、軍部反乱の恐怖が現実に根ざしていたという根拠は薄弱だ。[#126ページ、ネイマーク]
1934年の第十七回党大会時の中央委員と中央委員候補139人のうち98人、つまり約70パーセントが1937―38年に逮捕、処刑された。[#129ページ、ネイマーク]

因果応報の長官エジョフ

エジョフも前任のヤゴダを逮捕しており、歴代長官は新任者に罰せられるという悲劇なのか喜劇なのかわからない結果となっている。

ベリアは1938年11月に実際上エジョフと交代して、エジョフとNKVDのエジョフ配下の処刑にとりかかった。そのときに有罪とした根拠は、あれだけたくさん逮捕された人びとがじつは無実だったことと、「非合法手段」によってかれらの自白を引き出したことであり、それらは文書で明白だった。[#128ページ、ネイマーク]

 

本の感想

本の本文は、上のように年表にしてみないとわからないように、時代や場所、そして数字もバラバラでまとまっていない。筆者がスターリンはヒトラーと並ぶジェノサイド犯罪者だとの熱い主張は伝わるが、一つのストーリーとしては時系列が飛んでいるので、一読するだけではわかりにくい。一方で、訳者(根岸隆夫)あとがきがまとまっていて、読みやすく、示唆に富む内容だった。

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