本州で唯一クマが生息しないのは千葉県!その理由は縄文時代まで遡る?!

ランチタイムの社員食堂。窓際の席で、サキがタブレット端末を横向きに構え、論文のPDFとニュース記事を交互にスワイプしていた。眉間には少し皺が寄り、完全に“分析モード”に入っている。 その横に、サラダとサンドイッチを抱えたエミが立った。

「お疲れ様、サキちゃん。ランチなのに難しい顔でなにを分析してるの?」

サキは顔を上げる。

「あ、エミちゃん。お疲れ様」

「まさか、仕事のサーバーのログ解析なんてことはないよね?」

サキは首を横に振った。

「ううん。今日はもっと……骨太なデータ」

「骨太?」

「文字通り、骨のデータ」

エミは一瞬きょとんとし、それから笑う。

「またずいぶんニッチな世界に行ってるわね」

サキは気にせず、画面をエミのほうへ向けた。

「これ。森林総研のレポート。タイトルは――『森林総合研究所が収集したツキノワグマの頭骨標本リスト』」

「クマの……頭骨?」

「そう。クマの頭の骨」

「マニアックにも程があるわ、と言いたいところだけど今年の漢字は『熊』だもんね」

そう言いながらも、エミは画面を覗き込む。

「で、これがどうかしたの?」

「最近、クマの出没ニュース多いでしょ。それで、2015年のこの論文レポートが再び注目されて、面白いニュースとして次々にメディアで紹介されているの」

サキは一拍置いて言った。

「ねえ、エミちゃん。本州で唯一、野生のクマが生息していない県って、どこだと思う?」

「え? 本州で? たしか九州にはクマがいないんだよね」

エミは少し考える。

「東京? 大阪?」

「ブブー。残念」

サキは淡々と訂正する。

「奥多摩にもいるし、大阪の北摂にもいる。
正解は……千葉県」

「千葉!? 自然豊かだし、森もあるじゃない」

「でしょ。私も不思議に思って調べた」

サキは指で画面を滑らせる。

「この論文、1985年から2013年まで、約30年分のデータが載ってる。ツキノワグマの頭骨、1495個体分」

「……1500近く?」

「うん。有害駆除や狩猟で捕獲された個体の頭を、研究者が地道に集めてきた結果」

エミは目を見張る。

「執念ね、それ」

「岩手県だけで536個体。京都府240、広島県507。兵庫、福井、富山も数十ずつ」

「つまり、本州の北から西まで、まんべんなくいる」

「そう。でもね」

サキは検索窓に入力する。

「“Chiba”で検索すると――」

「……ゼロ?」

「ゼロ件。千葉県の標本は一つもないってこと」

エミは息をのむ。

「それだけ集めてて、千葉だけ空白……確かに、偶然じゃなさそう」

「うん。 で、その理由を調べたら、哺乳類学の研究者で、クマの生態に詳しい千葉県立中央博物館の下稲葉さやか研究員の面白い仮説に行き着いたの。それがニュースになったってわけ。たぶん11月の千葉日報が最初かな、そのあと朝日新聞や読売新聞でも同様の記事が出ているわ」

「聞かせて」

「理由は二つ。一つは地理的な孤立」

サキは地図を表示する。

「房総半島の山は、秩父や丹沢みたいな他の山塊と繋がってない。平野と都市部で分断されてるから、クマが移動できない」

「陸の孤島、ね」

「もう一つが決定的。エミちゃんの大好きな歴史の話、『縄文海進』よ」

エミの目が輝く。

「知ってる。縄文時代前期、海面が上昇して相当、内陸まで海が入り込んだ現象ね」

「その頃、房総半島は本州から切り離された“島”だった可能性が高いそうよ」

「……島だった?」

「うん。クマは広い行動圏が必要な動物だから、その小さな島では個体群を維持できず、絶滅したんじゃないか、って」

エミは思わず声を上げる。

「すごい……!縄文時代の気候変動が、現代の生態系を決めてるってこと?」

「でもさ……エミちゃん。ここまで聞くと、不思議に思わない?」
サキは、少しだけ嬉しそうに続ける。
「この解説をしてた下稲葉さんの論文を調べていたら、「千葉県立中央博物館敷地内(千葉市中央区)におけるニホンアナグマMeles anakumaの出現記録」(宮川尚子・下稲葉さやか)という論文を見つけたの」

エミは一瞬きょとんとしたあと、「ああ……唯一ツキノワグマがいない県だけど――アナグマはいるんだ!クマの親戚みたいな顔してるけど、全然サイズが違うわね」

「うん。そこがポイント」
サキは画面をエミの方に向ける。

そこには、千葉県立中央博物館の調査結果として自動撮影カメラの画像が並んでいた。

「最近の調査で、千葉市内――しかも都市部で、アナグマの出現が何度も確認されてるそうよ。場所は県立中央博物館の敷地内。面積にすると、だいたい数ヘクタール規模」

「1ヘクタールって、100メートル四方よね。そんなに狭い範囲で大丈夫なの?」

「今猛威をふるっているツキノワグマやヒグマと比べると、信じられないくらい狭いよね。でもアナグマにとっては、十分なんだと思う」

サキは少しだけ言葉を選ぶ。「クマはね、一頭が生きるために、ものすごく広い行動圏が必要になる。餌も多いし、移動距離も長い。
だから、縄文時代に房総半島が“島”になったとき、その中だけじゃ個体群を維持できなかった」

エミは、ゆっくりと頷いた。
「だから、いなくなった。そして今も、戻ってこられない」

「そう。でもアナグマは体が小さくて、必要な餌の量も少ない。ミミズとか、木の実とか、カエルとか……
都市の中の“ちょっとした緑地”でも、生活が成立する」

「つまり……」エミが言葉を継ぐ。
「千葉は、クマにとっては“大きすぎる体には狭すぎる島”だけど、アナグマにとっては“ちょうどいい隠れ家”だった、ってことね」

「……動物の分布って、今の地図だけ見てても分からないのね。体のサイズとか、必要な生息圏の広さとか、もっと前――その土地がどんな歴史を通ってきたかが、全部残ってるんだ」サキはそう言って、タブレットを閉じた。

エミは窓の外を見やり、「骨と地形と、縄文時代。たしかにこれは……歴史の話ね」と呟く。「でもこれから『もしも』千葉県でもツキノワグマが現れたら、それは日本史にとって重大な事件になるかもしれないわね」

「エミちゃん、今度……千葉に行かない?とりあえずクマ鈴の用意は不要」とサキは小さく笑う。

「そうね!ツキノワグマがいない地形や自然を自分の目と足で確かめておきたいわね。これは歴史探偵の仕事よ!」

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