日本語の乱れ「ら抜き言葉」から「助詞」にひろがる

最初に言っておくが、筆者は日本語の乱れが必ずしも悪いと思っていない。

源氏物語を原文のまま、理解できないのも、日本語の乱れの結果であるが、日本語の進化とも言えるからだ。

日本語の乱れの代表格は、「食べられる」を「食べれる」とする、「ら抜き言葉」だが、もはや、口語としては完全に定着している。

もしも、令和に刊行された小説のセリフが「食べられる」とあったらかえって、リアリティがないと受け止められる、かもしれない。

しかし、作者はバカだと思われないために、セリフはら抜き言葉の「食べれる」にするが、地の文は「食べられる」と書き分けるだろう。だが、そんな使い分けは文学の価値の上下に必要な要素とは思えない。

読売新聞が「国語力が危ない」との連載を(2019年12月5日から3回)始めた。

1回目の事例として

「この公園には滑り台をする」

を挙げていた。

見たときは「えっ?」と思ったが、よく考えると、国際語としてはこの文は正しい。

言うまでもなく、「には」を「で」にすべきだ。

ただ、位置を示す助詞として考えると、ちょっと意味合いが変わる。

英語なら「in」や「at」、中国語では「於」に相当する、日本語は「で」「に」「には」などになる。

だが、日本語の「で」は、手段を示す助詞でもあるので、英語や中国語を使う人が日本語を学ぶ際には、位置の助詞は「に」「には」、「で」は手段の助詞と限定した方が、親切な気がする。ついでに「に」は「in」と「at」の意味に限定して、「to」に当たる助詞は「ヘ」に集約する。

極論ではあるが、これくらいしないと、日本語は難しすぎる、と思う。

もう一例、記事に載っていた大学の卒論で書かれたという

「なぜこのような考えが現実性を持ちやすいのか、解明が進んでいる」

との一文についても同じように思った。

二つ目の「を」は不要だが、読点の前のフレーズを一塊りとする、英語なら頻出する「what〜」構文的な考えからすると、ここに「を」を入れるのは、説明文としては親切だ。

こうした若者の日本語の乱れを、スマホの影響と、記事ではしている。

悪い例の文を書いた若者の属性が不明なので、想像になるが、日本の国際化も一因ではないだろうか。

親のどちらかが日本語を母語としない人は、特に若い世代でドンドン増えている。

例えば、母親に「公園遊びなさい」と言われて日本で育った若者は結構な数いるのではないだろうか?

例に挙げた2つの文が、受験や就職に置いて、論旨ではなく、その表現上で減点となるとすれば、将来の日本社会にとって良いこととは思えない。

変わるべきは、日本語のほうなのかもしれない。

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