フェルメール《真珠の耳飾りの少女》と菱川師宣《見返り美人図》にモデルはいなかった!同じ17世紀のオランダと江戸の共通点

この話をMVにしました。

フェルメール《真珠の耳飾りの少女》 撮影可でしたけど撮影できるタイミングは一瞬(間近で鑑賞する時間が秒単位なので)

【8月 丸の内のオフィス 昼休み】

(コンビニのサラダを開けたところで、エミがコンビニチケットを差し出してくる)

エミ:「サキちゃん。ちょっとこれ見て」

サキ:「なにこれ……えっ、待って、フェルメール展のチケット!?」

エミ:「フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展。大阪中之島美術館。2枚」

サキ:「2枚!?」

エミ:「2枚」

サキ:「エミちゃん、あれ倍率えぐいって言われてたやつだよね!? みんな『取れない取れない』って騒いでたやつ!」

エミ:「取れちゃったのよ。しかも見事に2枚。もちろん、サキちゃんと一緒に…(ちら)」

サキ:「うわぁ〜! エミちゃん引き強っ!私、夏にまだ帰省してなかったんだよ。夏休み消化しなきゃいけないし。実家、大阪だからエミちゃんもうち泊まる?そのまま二人で行こうよ!」

エミ:「え、ちょ、ちょっと待って」

サキ:「なんで!?」

エミ:「……サキちゃんの御両親にごあいさつ、き、緊張するわ」

サキ:「なに言ってんの。友達んちに泊まるだけじゃん」


大阪中之島美術館、行列にて

【大阪中之島美術館 5階展示室前】

サキ:「すごい並んでるねぇ」

エミ:「時間指定の予約制でこれよ」

サキ:「でもさ!」

エミ:「でも?」

サキ:「去年の万博に比べたら、天国じゃない?」

エミ:「確かに灼熱の炎天下でイタリア館で並んだことを考えたら、日陰だし冷房かかっているし天国すぎるわ(それにサキちゃんとずっといられるし)」

エミ:「ちなみに、サキちゃん。今回の展示数はたった12点なの」

サキ:「えっ、12点だけ!? こんなに並んで12点? 少なくない?」

エミ:「少ないの。オランダのマウリッツハイス美術館から来た12点だけ。でも——だからこそ1点ずつ、ちゃんと向き合えるともいえるのよ」

サキ:「あ、そっか。100点あったら、途中で電池切れするもんね」

エミ:「そう。大きい展覧会って、後半はもう目が滑るでしょう。今日はそれがないの。もちろん今回のメインはフェルメールの《真珠の耳飾りの少女》とフェルメールの現存最初期の《ディアナとニンフたち》の2作だけど、それ以外の10点は、歴史画、肖像画(トローニーを含む)、風俗画、教会内景画、風景画、静物画って、17世紀オランダ絵画の主要な6ジャンルを学べるようになっている贅沢な構成なのよ」

サキ:「肖像画の『トローニー』って?聞いたことない言葉だけど」

エミ:「トローニーは『頭部の習作』という意味で、今日はまさにその『トローニー』が主役なの。《真珠の耳飾りの少女》はトローニーだから、覚えといて」

エミのメモ📝

会場の解説にそって、トローニーの定義を整理しておきます。

肖像画というジャンルのなかの、独自のカテゴリー(別ジャンルではなく「隣」)。② 実在の人物がモデルになることもあるが、特定の個人の肖像としては扱われない。③ 胸元から頭部までを描く。④ 狙うのは大げさな表情(「笑う少年」など)か、あるカテゴリーに属する人物(「若い女性」など)。⑤ 17世紀のオランダ・フランドル地方で流行し、大胆な筆遣いで自由闊達に描かれた。⑥ 人気を高めたのはレンブラント、そして最も有名なトローニーがフェルメール《真珠の耳飾りの少女》


入ってすぐ笑う男がいた

(展示室に入ってすぐの部屋。サキがいきなり足を止める)

サキ:「わ、このおじさん……めっちゃ笑ってる。歯まで見えてる。インパクトあるなぁ」

エミ:「レンブラントの《笑う男》。1629年から30年ごろの作品ね。真珠の耳飾りの少女が1665年頃だから、レンブラントはフェルメールの1、2世代前ね」

サキ:「肖像画コーナーの解説文を読むと……

「トローニー」(頭部の習作)は、肖像画のジャンルのなかでも独自のカテゴリーです。実在の人物がモデルとなる場合もありますが、特定の個人の肖像として扱われることはありません。トローニーは17世紀にオランダやフランドル地方で人気を博し、大胆な筆遣いで自由闊達に描かれ、活気と魅力にあふれる作品が制作されました。フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》は、トローニーとして最も有名な作品といえるでしょう。

へぇ、特定の個人の肖像じゃないんだ。つまり、基本的にモデルはいないんだ。《真珠の耳飾りの少女》のモデルは誰か?っていうのが映画でもポイントだったよね。意外だね。

エミ:「そもそも17世紀のオランダは、世界一の『肖像画大国』だったの」

サキ:「肖像画って、あの、王様のえらそうなやつだよね?」

エミ:「そこが違うのよ。ほかの国だと、富を独占してたのは宮廷や貴族でしょう。絵を注文できるのも、そういう人たちだけ。でもオランダは経済的に大成功して、新しく台頭した中産市民階級——ブルジョワが主役になったの。裕福な商人や実業家が、こぞって自分の肖像を注文した」

サキ:「絵の注文主が、王様じゃなくてベンチャー企業の社長さんってこと?」

エミ:「そう。どんなときに注文したと思う?」

サキ:「んー……えらくなったとき?」

エミ:「正解。結婚したとき、子どもが生まれたとき、要職に就いたとき。人生の節目を記念して頼むの」

サキ:「えっ、それ記念写真じゃん。結婚式の写真とか、卒業式の一枚とか、そういうやつでしょ? うわ、急に親近感」

エミ:「しかも私邸に飾る小さい絵から、記念碑的な集団肖像画の大作まで、サイズもピンキリ。集団肖像画っていうのは、市民の団体がみんなでお金を出し合って描いてもらう、大人数の絵ね」

サキ:「卒業アルバムの集合写真だ」

エミ:「(笑って)近いわ。で、そのマーケットにスター画家が現れるの。アムステルダムでは1630年代のレンブラント。迫真的な肖像で一気に注目された。レンブラントの名作《夜警》が有名ね」

サキ:「《夜警》知ってる。日本に来ないかな?」

エミ:「夜警はアムステルダム国立美術館にあって完全に門外不出だから、来日することはないわね。修理さえその場で展示しながら行っているの」

サキ:「門外不出のレベルがすごい」

エミ:「で、ここからが本題。その『肖像画』というジャンルのなかに、ちょっと変わったカテゴリーがあるの。それがトローニーよ」

サキ:「別のジャンルじゃなくて、中にあるの?」

エミ:「そこ、大事なところなの。トローニー(tronie)はオランダ語で『顔つき』『つら』みたいな意味。日本語だと『頭部の習作』と訳されるわ。肖像画だけど肖像画ではないのがトローニーなの」

サキ:「人の顔を描いているのに特定の誰かがモデルじゃないってことだけど、複雑だよ」

エミ:「複雑よね。実在の人物がモデルになる場合もある。でも特定の個人の肖像として扱われることはないって言われても疑問符ばかりよね」

サキ:「うん」

エミ:「つまりね。『この絵を描いたときにヤン・なんとかさんをモデルにしたり、参照したりして描いた』が事実だったとしても、この絵はヤンさんの絵じゃない。描かれているのは『大笑いしている男』という状態のほうなの」

サキ:「うわ、ややこしい。……あ、でもわかった。被写体はいることもあるけど、主語じゃないってことだ」

エミ:「そう! それよ!」

エミ:「描かれるのは胸元から頭部まで。そして狙いは二種類あるの。ひとつは大げさな表情——この『笑う男』みたいな。もうひとつはあるカテゴリーに属する人物——『若い女性』みたいな」

サキ:「『若い女性』……名前じゃなくて、属性で呼ばれてる」

エミ:「そうなの。17世紀のオランダとフランドル地方で大人気になって、大胆な筆遣いで自由闊達に描かれた。活気と魅力にあふれた作品がどんどん作られたのよ。人気を決定的にしたのが、このレンブラント」

サキ:「ねぇエミちゃん、それさ」

エミ:「うん?」

サキ:「誰でもないから、筆が自由になったってこと?」

エミ:「……え」

サキ:「だって注文された肖像画って、似てなかったら怒られるじゃん。社長さんの記念写真なんだから。『鼻がちがう』とか言われるでしょ。でもトローニーは誰でもないんだから、似てないって怒る人がいない。だったら思いっきり筆を走らせられるじゃん」

エミ:「(早口で)そうなの! まさにそうなの! 肖像画で稼ぎながら、肖像画の隣で実験する。しかもその実験作が『表情の絵』『若い女性の絵』としてそのまま売れる! 責任がないぶん筆が跳ねて、跳ねたぶん絵が生きる。だから活気があるのよ!」

サキ:「(うわ、火ぃつけちゃった)」

エミ:「ふう。……でもね、大事なのはここ。肖像画は『この人を描いた絵』でしょう。でもトローニーは『こういう顔を描いた絵』。主語が個人じゃなくて類型なのよ。実は私たちはそれ2ヶ月前にも見てるのよ、別の美術館で」

サキ:「そうだっけ。オランダ美術展行ったっけ?」

エミ:「静嘉堂文庫美術館(静嘉堂@丸の内)の『元禄! 師宣劇場 十二ヶ月風俗図巻 大公開』よ」


時をさかのぼる——7月、丸の内で見た「見返り美人図」

サキ:「菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)の展覧会ね。《見返り美人図》が出てたのは最初の2週間、7月12日までの限定公開だったから、エミちゃんが定時ダッシュしてきて『今日行くわよ』って言ったときは何事かと思ったよ」

エミ:「オフィスから歩いて7分よ。行かない理由がないわ」

サキ:「7分だけどさぁ、私まだPC閉じてなかったよ」

エミ:「あれ、東京国立博物館の所蔵品で、東京国立博物館150周年記念展で出展してから、修理していて、東京では初展示だったのよ。絹に描かれた肉筆にくひつだからめったに実物は見られないわ」

サキ:「そうそう、意外だったのが、見返り美人って版画じゃなかったんだよね? 切手のイメージが強くて、なんか印刷物っぽいなって思ってた」

エミ:「いい質問! あれは版画じゃなくて、師宣が元禄6年(1693年)頃に筆で描いた一点物なのよ。師宣は『浮世絵の祖』って呼ばれるくらい版本はんぽんや版画をたくさん手がけた人だけど、《見返り美人図》は肉筆画。だから世界に一枚しかないの」

サキ:「思ったよりちっちゃくて、思ったより赤かった」

エミ:「赤い、そう。真紅の小袖に、桜と菊の丸い花模様が散らしてあって、帯は当時大流行した『吉弥きちや結び』。歌舞伎の女方の上村吉弥が広めた結び方ね」

サキ:「ん? 待って。流行の帯……ってことは、あれって元禄のインフルエンサーってこと?」

エミ:「……サキちゃん」

サキ:「なに?」

エミ:「今日の結論、いま言っちゃったわよ」


《真珠の耳飾りの少女》

(青い坂の通路をのぼって最後の部屋に入ると、フェルメールの《真珠の耳飾りの少女》1点が中央奥に飾られている。何折れもする長い行列がゆっくり進み、二人の前に《真珠の耳飾りの少女》がある)

サキ:「……あ」

エミ:「……」

サキ:「エミちゃん、エミちゃん。この子、こっち見てる」

エミ:「見てるわね」

サキ:「振り返ってる」

エミ:「振り返ってるね……」

(間近で鑑賞できる時間はだいたい10秒くらいだが濃密な10秒を過ごした二人だった)

大阪中之島美術館を出て近くの喫茶店で

サキ:「はぁ~逢えてよかったぁ」

エミ:「本当ね。実物から発せられる視線やパワーは格別だったわ」

サキ:「真珠の耳飾りの少女の魅力ってなんだろうね」

(エミが図録を開いて、マウリッツハイス美術館の館長が寄せた文章を指さす)

エミ:「ここ読んで。フェルメールが描いた女性たちって、だいたい何かに気を取られてるの」

サキ:「何かって?」

エミ:「ヴァージナルっていう鍵盤楽器を弾いてたり、手紙を読んでたり、レースを編んでたり、牛乳を注いでたり」

サキ:「あー、たしかに。会場でフェルメールの全作品の画像が実物大で展示されていたけど、『何かしてる人』の絵が多かった」

エミ:「でもこの子は、何もしてないの。専念してる対象が、たったひとつしかない」

サキ:「……はっ!彼女を見ている、私たち」

エミ:「そう。手紙も楽器もレースも牛乳もない。彼女が専念していることは、こっちを見ることだけなの」

サキ:「うわ、ずる……いや、ずるくないんだけど、なんか……あざといね」

エミ:「ずるいわよ。館長さんの文章、『あなたが標的』って書いてあるもの」

サキ:「標的!?」

エミ:「ズキュン、ってね。1665年ごろ、デルフトのフェルメールが描いた少女。真っ暗な背景の中で、肩越しにこちらを振り向いてる。名前も、どこの誰かも、わからない」

サキ:「フェルメールの娘さんとか、フェルメール家の女中とか、そういう説なかったっけ」

エミ:「説はいくつもあるの。フェルメールの娘説、姪っ子説、隣の家の子説。パトロンだったファン・ライフェン家の娘、マグダレーナ説」

サキ:「多すぎ!」

エミ:「多いのよ。でも決め手はないの。というより——決め手を探すこと自体が、たぶん筋違いなのよ」

サキ:「あ、そっか。トローニーだから」

エミ:「そう。入口の《笑う男》と、同じカテゴリーの絵。異国風のターバンを巻かせて、真珠を光らせて、口を少し開かせて、振り向かせる。『顔の状況』を作った絵なの。だからモデルの戸籍を探しても、絵の正体には辿り着けないってことね」

サキ:「……なんかそれ、ちょっと寂しくない? この子、名前ないんだよ?」

エミ:「(少し黙って)逆かもしれないわ」

サキ:「逆?」

エミ:「名前がないから、400年ずっと誰のものにもならずに済んでるの。もし『デルフトの某商人の三女、17歳』って札が付いてたら、私たちは『へえ、その人ね』って通り過ぎたと思う」

サキ:「……うわ。うわぁ」

エミ:「しかもね、それ、私が勝手に言ってるんじゃないの」

サキ:「え?」

エミ:「(図録を開いて)館長さんの文章、最後のほうにこう書いてあるの。『そもそも彼女の正体とは、本当に重要なことなのでしょうか』って」

サキ:「……作品を預かってる美術館の、いちばん偉い人が言ってるんだ、それ」

エミ:「そうなの。しかもその前に、モデル候補を全部並べたうえで、よ。『調べ尽くした。でも、いまだに何もわかっていないも同然だ』って認めたうえで、この一言が来る」

サキ:「かっこよ……」

エミ:「ちなみにフェルメール、異名があるの。『デルフトのスフィンクス』」

サキ:「スフィンクス! 謎かけてくるやつじゃん!」

エミ:「そう。生涯の記録が少なくて、作品も少なくて、なにもかもがはっきりしない。謎を出すだけ出して、答えを置いていかなかった人なの」

サキ:「謎かけの名人が描いた、答えのない女の子……できすぎじゃない?」

エミ:「できすぎなの。だから四百年もったのよ」

(しばらく無言。やがてサキが図録を見つめて急に真顔になる)

サキ:「……エミちゃん、この真珠おかしいよ」

エミ:「え?」

サキ:「大きすぎる。こんなサイズの天然真珠、当時どんだけ高いのって話じゃん。あとこれ、輪郭線がない」

エミ:「ふむふむ」

サキ:「白いのがふたつ、ぽんって置いてあるだけなんだよ。上のちっちゃいのが、たぶん窓の光の鏡面反射。下のぼやっとしたのが、襟の白から返ってきた拡散反射。ハイライトを2個置いただけで、脳が勝手に球体だと思い込んでる」

エミ:「これは重要なポイントかもしれない。実はこの真珠、ガラスなどの模造品だったんじゃないかって指摘されてるのよ。フェルメールは真珠を描いてるんじゃなくて——」

サキ:「真珠っぽさを描いてる。人物すらモデルはいない。真珠もモデルは真珠じゃない!究極のトローニー!」

エミ:「そう! そうなの! しかもね、面白いのは、少女も真珠も現実ではないかもしれない一方で、この絵でいちばん高価な材料は真珠じゃなくてターバンの青なこと。ラピスラズリから作る天然ウルトラマリンなの」

サキ:「あー、ラピスラズリ! あれ主成分がラズライトで、硫黄が入ってて、あの青って硫黄イオンが光を吸ってるやつだよね。……えっ、じゃあこれ石を砕いて塗ってるってこと? 金より高いって聞いたことあるよ」

エミ:「そう。本物の宝石は、真珠じゃなくて布のほうに使われてるの」

サキ:「ええっ、逆転してるじゃん! 主役だと思ってた真珠がニセモノで、脇役だと思ってた布が本物……」

エミ:「この絵の構造そのものよね。実在するかどうかより、そう見えるかどうか。トローニーって、まさにそういう絵なの」

サキ:「……ねぇエミちゃん」

エミ:「うん」

サキ:「12点で十分だったね」

エミ:「(笑って)ね。100点もあったら、彼女の前に立ってあの視線を受け止める体力が残ってなかったわ」

フェルメールと菱川師宣

(注文したミックスジュースが来る)

サキ:「んーっ! これこれ! 本場のミックスジュース!」

エミ:「東京でも飲めるでしょうに」

サキ:「ちがうの! こっちのはバナナが濃いの! 実家の近所の喫茶店で飲んでたやつの味なの!」

エミ:「じゃあ、感想戦の続きを飲みながらしましょう」

サキ:「あらためて考えると、見返り美人ちゃんとあの子、共通点多すぎない?」

エミ:「うんうん」

サキ:「まず、どっちも振り返ってる。あと、どっちも背景がない。真っ暗か、なんにもないか。あと……これ大きいと思うんだけど、どっちも服がすごかった。ターバンと、真っ赤な小袖」

エミ:「歴史的にも時代が極めて近いのよね。《真珠の耳飾りの少女》が1665年ごろ、《見返り美人図》が元禄6年(1693年)ごろ。30年も違わないの。ほぼ同時代よ。片やユーラシア大陸の西のデルフト、片や東の江戸。互いのことなんて何ひとつ知らないのに、やってることが恐ろしいほど似てる」

サキ:「うん」

エミ:「一つ目、モデルが特定されない、もしくは存在しない。トローニーも美人画も、『誰か』ではなく『こういう美しさ』を描くジャンル。師宣だって、実際に町で見かけた誰かを下敷きにしてるかもしれないの。でもそれは『その人の肖像』にはならない。トローニーとまったく同じ理屈よ。二つ目、背景を消す。物語も部屋も風景も削ぎ落として、人物一人を空間に浮かべる。三つ目、衣装が主役級。異国のターバン、流行の吉弥結び。どちらも『この時代のこの服を見てくれ』っていう絵でもあるの」

サキ:「四つ目もあるよ」

エミ:「え?」

サキ:「どっちも売り物

エミ:「……!!」

サキ:「だってさ、トローニーは市民が買う絵なんでしょ? 浮世絵だって、町の人が買う絵じゃん。お殿様に頼まれて描いた絵じゃないんだよね。お客さんがいるから、この顔になったんじゃないの?」

エミ:「……サキちゃん」

サキ:「な、なに。変なこと言った?」

エミ:「言ってないわよ。むしろ、それが全部の理由なの」

サキ:「え」

エミ:「(早口で)17世紀のオランダは、宗教改革で教会がドカンと絵を注文する仕組みが弱くなって、代わりに商人や職人が家に飾る絵を買うようになったの。元禄の江戸も、大名じゃなくて町人がお金を持って、芝居と遊里と流行に夢中になった時代でしょう。絵を買う人が『みんな』になった瞬間、絵は『誰か』を描くのをやめて『憧れ』を描きはじめるのよ!」

サキ:「(うわ、早口来た)……でも、うん。鳥肌立った」

(サキがストローをくわえたまま、しばらく黙る)

サキ:「……ねぇ、でもさ。ひとつ引っかかってて」

エミ:「なに?」

サキ:「オランダの人たちが最初に買ったのって、自分の顔だよね。結婚とか、昇進とかの記念写真」

エミ:「そうね」

サキ:「でも江戸の町人が浮世絵で買ってたのって、自分の顔じゃないじゃん。役者とか、美人とか、憧れの顔でしょ。そこ、違うくない?」

エミ:「……ちょっと待って、サキちゃん。それ、すごい指摘よ」

サキ:「え、そう?」

エミ:「うん。だってね——オランダで『自分の顔』の市場ができたあと、そのすぐ隣に生まれたのがトローニーなのよ」

サキ:「肖像画で『自分』を買う市場が育ったから、画家がたくさんいて、腕が上がって、買い手も絵を見る目を持った。そのうえで、『誰でもない顔』も売れるようになったってことね。自分の顔の市場が、誰でもない顔の市場を連れてきた。じゃあ江戸は?」

エミ:「江戸はね、たぶん順番が違うの。町人が自分の肖像を大量に注文する文化は、そこまで育たなかった。代わりに、芝居小屋と遊里っていう『憧れを見に行く場所』が先にあったのよ。だから絵も最初から憧れ側から始まった」

サキ:「スタート地点が違うのに、着いた場所が同じってこと?」

エミ:「そう。オランダは『自分』から出発して『誰でもない顔』に辿り着いた。江戸は最初から『誰でもない顔』を売っていた。道は違うけど、行き着いたのは同じ場所——名前のない、憧れの顔」

サキ:「……うわぁ」

エミ:「離れた場所で、同じ社会の変化が起きて、同じ絵が生まれたの。誰も真似してないのに。私、これがいちばん怖くて、いちばん好きなところなの」


そして「振り返り」の差

(ミックスジュースが半分になったころ)

サキ:「でもさ、違うところもあるよね」

エミ:「どこ?」

サキ:「見返り美人ちゃんは全身だけど、あの子は顔だけ」

エミ:「そうね。トローニーは基本的に胸から上のバストアップ。顔と表情が研究対象だから。対して《見返り美人図》は立ち姿の全身像。着物の柄も、帯の結び目も、裾の流れも全部見せる」

サキ:「なんでだろ。あ……着物は全身じゃないと成立しないから?」

エミ:「え?」

サキ:「だって小袖って、平面の布に絵が描いてあるんだよね。柄が身体の立体に沿ってるんじゃなくて、広げた面がキャンバスになってる。だったら、顔だけ切り取ったら柄が死んじゃうじゃん」

エミ:「……面白いのはここからよ、って言おうと思ってたのに」

サキ:「あ、ごめん」

エミ:「いいの。むしろ、その通りなの。同じ『衣装を見せる絵』でも、服の設計が違えば構図が変わるのよ」

サキ:「服の設計思想がフレーミングを決めてるってこと? うわ、それめっちゃ工学っぽくて好き」

エミ:「あと、振り返り方も違うのよ。少女は肩越しにこちらを見ている。目が合う。でも見返り美人は、身体は向こう、顔だけこちら——なのに視線は、微妙にこちらを外してるように見えるの」

サキ:「あー! わかるわぁ、あれ目が合わないんだよね。合いそうで合わない」

エミ:「フェルメールは見つめ返してくる絵、師宣はすれ違いざまの絵。片方は対話で、片方は余韻。同じ『振り返り』でも、置いてくる感情が違うのよね」

サキ:「あ、それってさっきの館長さんの話とつながるんじゃない?」

エミ:「どういうこと?」

サキ:「少女のほうは『私たちを見ること』に専念してるんでしょ。手紙もレースも牛乳もなしで。……でも見返り美人ちゃんは、専念してないよね。歩き去る途中じゃん」

エミ:「……」

サキ:「あの子には、この先の予定があるんだよ。芝居行くのか、待ち合わせなのか知らないけど、こっちに用はないの。ちらっと振り向いただけで、もう行っちゃう」

エミ:「……サキちゃん、あなた、すごいわよ」

サキ:「ほ、ほめても、ミックスジュースはあげないからね」


🎵 プレイリスト会議

サキ:「はい、恒例のやつ。今日のテーマ曲、何にする?」

エミ:「今日は決まってるわ。Ado「レディメイド」」

サキ:「お、なんで?」

エミ:「『レディメイド』って、既製品って意味でしょう。トローニーも美人画も、誰か一人のためじゃなくて、市場のために作られた『型』なの。でもその型の中で、フェルメールも師宣も、とんでもない一枚を作っちゃった。既製品の枠で本気を出す曲、っていう意味でもぴったりだと思って」

サキ:「あー、わかるわぁ! じゃあ私はYOASOBI「群青」かなぁ」

エミ:「あっ、やっぱりフェルメールブルー」

サキ:「あのターバン。石を砕いた青でしょ? そこまでして塗りたい色があったって話じゃん。『好きなものを好きだと言える』って、そういうことだと思うんだよねぇ」

エミ:「……いい選曲だわ。じゃあ私、もう一曲。Aimer「茜さす」」

サキ:「すれ違って、去っていく人の後ろ姿の曲。見返り美人の、あの目が合いそうで合わない感じにぴったり。じゃあ、最後に私からヨルシカ「春泥棒」を」

エミ:「小袖の桜の丸紋が頭に浮かぶわね」

サキ:「見返り美人図も真珠の耳飾りの少女も『一瞬を止めた絵』なんだなって思ったんだよ。振り返った0.5秒を、300年間ずっと止めてるってことじゃん。それってさ、散る前の桜を数えてる曲とおんなじだなって」

エミ:「……サキちゃん。あなたと一緒にいるこの瞬間をぎゅっと永遠にしたいわ」

サキ:(イヤホンで音楽を聴いている)「ん?ごめんごめん、今なんて言った?」

エミ:(顔を真っ赤にして)「……な、なんでもないわ……」

展覧会情報

フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展 17世紀オランダ絵画の名品、奇跡の再来日

会期:2026年8月21日(金)〜9月27日(日) 会期中無休

会場:大阪中之島美術館 5階展示室(大阪市北区中之島4-3-1)

開館時間:9:30〜17:00(入場は16:30まで)※特定日は20:00まで開館(入場は19:30まで)

公式サイト:フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展

元禄! 師宣劇場 十二ヶ月風俗図巻 大公開(※終了)

会期:2026年6月27日(土)〜8月23日(日)

会場:静嘉堂文庫美術館(静嘉堂@丸の内)

※菱川師宣《見返り美人図》(東京国立博物館蔵)は6月27日〜7月12日の期間限定公開でした

公式サイト:静嘉堂文庫美術館

映画「真珠の耳飾りの少女」期間限定無料公開中
https://www.youtube.com/watch?v=fJ4UcCjA9mY

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