国内有数の大きさの円墳
名古屋市昭和区の国史跡「八幡山古墳」は約80メートルの円墳としては愛知県で最大。国内でも最大規模の円墳です。
鶴舞公園の裏側に位置します。(地理院地図に加筆)
立ち入り禁止ですが周溝の大きさ含めて迫力があります。
台地の縁にあり古代には阿由知潟(あゆち=愛知の地名由来)が目の前に迫り、浜風を受ける場所だったことでしょう。
下は現地の説明パネルです
北側には名古屋工業大学のキャンパス内に一本松古墳があります。
70〜80メートルクラスの前方後円墳でした。今は一部が削られ帆立貝式古墳のようにも見えますが。
解説パネル
隣接する鶴舞公園は、台地の縁の湧水のある場所という意味でもともと「流間」と書いて「ツルマ」と呼ばれていました。
近代に公園になる時に、縁起の良い当て字「鶴舞」となり、その後、「つるまい」とも呼称されて、駅は「つるまい」、公園は「つるま」と分かれています。
古代にはこうした崖下の湧水を使い稲作が行われ、さらに阿由知潟の水運で発展した、県内最大の前方後円墳である断夫山古墳のある熱田と並ぶ尾張有数の古墳時代中期(5世紀ごろ)の大規模な集落があったと考えられます。
古墳の崖下の荒畑地名
八幡山古墳の南と西は崖。
南側の崖下の地名が荒畑。
つまり畑としてはあまり使えないと言う地名です
今回の北海道の地震によって、過去の噴火による積もった軽石層が山崩れ起こしました。
名古屋台地もこのようにたくさん崖があります。今は都市化でほとんどなめらかな傾斜になっているためわかりにくいですが。
濃尾平野は御嶽山の噴火の軽石が飛んでくる地域でもあります。
そうでなくとも河川の浸食でがけ崩れは当然にあったはずです。
地名しか根拠は無いのですが、かつて歩いてみて、この荒畑と言う地名が崖崩れや土石流そういった災害によって生まれた地名だと考えてきました。
荒畑と言う事は、かなり大きな石などがごろごろとしていたのでしょう。
不思議なのは、ここが利便性の高い場所なことです。
古墳時代には、南に海が迫り、海産物は豊富。西の鶴舞公園は湧水が湧くので農業もできる。
鎌倉時代以降は、隣接する御器所が陶器の生産地となりました。つまり一次産業から二次産業まで網羅した地域でした。
にもかかわらず畑や水田として使えなかった地名はいつ、どこから来たのでしょうか。
その疑問の答えの片鱗が今回北海道の地震の山崩れを見て浮かびました。
古墳や中世の生産工場の存在は地域がずっと反映していたと言うふうに思われています。
が実際にはこうした工業化によって自然が破壊されるので災害が起きやすくなる面もあります。
水田などの農業産業よりも工業や海運を使った物流に集中した土地柄だったかもしれません。
鶴舞公園は水が出る土地と言う意味です。そのツルマと言う貴重な場所に、近代になってこれだけの大きな規模の市民公園できたと言う事は、逆説的に、江戸時代においてはそれほど利用されていなかったということを物語ます。
なぜ海を埋め立てる開拓などが進む中で、名古屋に近い直近の場所があまり開拓されなかったのか、広い土地として余っていたのか。
この理由が荒畑という地名にあるのではないでしょうか。
鎌倉時代からは御器所の工業地帯に
八幡山古墳の頃は、西のツルマだけでなく、南の崖下にも湧水はわき、豊かな農業生産があったのでしょう。それがこれほどの大規模な古墳を作れる理由です。
しかし、古代の奈良時代ごろから、名古屋台地の東側、東山丘陵は須恵器いわゆる陶器の生産が盛んになります。
その結果、阿由知潟に流れこむ河川の下流部は、上流の土石流が押し寄せます。
そうして農業不適になった南側の谷地形を荒畑と呼ぶようになったのではないでしょうか。
西に残ったわずかな湧水がツルマだったのです。しかし、この井だけでかつての繁栄は支えきれずに、社会は一度解体されたでしょう。
それからしばらくして、鎌倉時代になり、ルネサンス文化(須恵器などの古代の形を好む復古主義)が起きた際に、祭祀用の須恵器を作る場所として御器所が生まれました。
寺社がスポンサーなので農業生産は不用です。
こうして工業地域として復活し、その後、経済から強い武士が生まれます。織田信長の筆頭家臣となる佐久間信盛など佐久間氏です。
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