建永2年4月5日(1207年5月3日)公卿の九条(藤原)兼実が59歳で死去。摂家九条家の始祖。日記「玉葉」の最古写本は宮内庁蔵。
【4月のある昼下がり 表参道のカフェテラス】
(桜が散り始めた並木道を眺めながら、アイスカフェラテを飲むサキと、文庫本を開いたままのエミ)
サキ:「エミちゃん、何読んでるの? すっごい分厚いやつ」
エミ:「ふふ、これね。九条兼実っていう人の日記の解説本。今日4月5日が命日なのよ」
サキ:「くじょう……かねざね? あー、なんか聞いたことあるような、ないような」
エミ:「平安時代の終わりから鎌倉時代の初めにかけて生きた、摂関家の公卿よ。40年間も日記を書き続けた人なの」
サキ:「40年!? ブログどころじゃないじゃん!」
エミ:「しかもね、ただの日記じゃないの。平家の全盛から滅亡、源頼朝の台頭、鎌倉幕府の誕生——まさに『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』の時代を、朝廷の中枢から記録し続けた一級史料なのよ」
サキ:「あ、『平家物語』の冒頭だ! ……って、なんかこう、すごい時代の目撃者ってこと?」
エミ:「そう。しかも彼自身の人生が、まさに『盛者必衰の理』そのものだったの」
サキ:「……え、それってどういうこと?」
第1章 摂関家の三男——20年の雌伏
(エミがカフェラテのストローを回しながら)
エミ:「九条兼実は久安5年——西暦1149年に生まれたわ。お父さんは関白・藤原忠通。摂関家のサラブレッドね」
サキ:「おぉ、超エリートじゃん」
エミ:「10歳で元服して、そこからの昇進スピードがすごいの。12歳で従三位、16歳で内大臣、18歳で右大臣。ロケットスタートよ」
サキ:「18歳で右大臣!? わたし18歳のとき何してたっけ……受験勉強?」
エミ:「でもね、ここからが長いの。右大臣になってから、なんと20年間ずっとそのまま。昇進が止まるのよ」
サキ:「ええっ、なんで?」
エミ:「時代のせいね。後白河院が院政で権力を握り、平清盛が武家として朝廷を牛耳っていた。兼実はこの両方に対して批判的な態度をとったの。特に平氏には非協力的だった」
サキ:「あー……上司にも取引先にもケンカ売ってるみたいな状態?」
エミ:「まあ、ケンカというより『筋を通した』のよ。でも結果的に政局の中枢から外されて、影響力はほとんどなくなった」
サキ:「(なんか、窓際管理職の悲哀みたいだなぁ……)」
エミ:「ただし例外がひとつ。治承4年(1180年)、清盛が南都——つまり奈良の東大寺や興福寺を焼き討ちしようとしたとき、兼実は『謀叛の証拠がない』と朝議で反対して、一時的にだけど攻撃を抑えたの」
サキ:「おお、ちゃんと体張ってるじゃん!」
エミ:「そう。筋を通す人だったのよ、兼実は。でもこの時代、筋を通すだけでは……なかなか報われなかったわ」
エミのメモ📝
兼実の異母兄には近衛基実(近衛家の祖)と松殿基房がいて、摂関の座をめぐる兄弟間の争いも複雑だった。同母弟には天台座主となった慈円(『愚管抄』の著者)がいる。兼実の日記『玉葉』と慈円の『愚管抄』——兄弟そろって日本史の超重要文献を残しているのがすごい。
第2章 頼朝との同盟——「夢の如し、幻の如し」
(エミが身を乗り出して)
エミ:「面白いのはここからよ。治承・寿永の乱——いわゆる源平合戦が落ち着いた文治元年(1185年)、38歳の兼実の運命が急展開するの」
サキ:「(来た、エミちゃんの早口モード……)」
エミ:「源頼朝がね、強力に兼実を推挽して内覧——天皇に奏上する文書を事前に見る権限を与えたの。翌年には摂政・氏長者に就任。20年の雌伏を経て、ついに公家政権のトップに立ったわ」
サキ:「おおー! 逆転ホームランじゃん!」
エミ:「しかもね、このとき兼実は日記にこう書いたの——『夢の如し、幻の如し』って」
サキ:「……え、嬉しかったってこと? それとも信じられなかったってこと?」
エミ:「両方だと思う。頼朝が自分を推薦してくれたことすら『寝耳に水』で、鎌倉と密通してるんじゃないかって疑われるんじゃないかと怯えてたくらいだから」
サキ:「なんかリアルだなぁ……サプライズ人事で昇進して、嬉しいけど不安、みたいな」
エミ:「でしょ? そしてここから、兼実は本気で政治に取り組むの。保元の乱以来途絶えていた記録所——訴訟を裁く機関を復活させたり、娘の任子を後鳥羽天皇に入内させたり」
サキ:「ようやく本領発揮ってやつだね」
エミ:「ところが……」
サキ:「あ、嫌な予感……」
エミ:「建久7年(1196年)、いわゆる『建久七年の政変』で突然失脚するの。源通親たち反兼実派の策謀によって、関白・氏長者を罷免されたわ」
サキ:「えええ!? また10年後に!?」
エミ:「48歳のときよ。そして——二度と政界に復帰することはなかったの」
サキ:「…………」
エミ:「『娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす』——まさに、この言葉そのものの人生ね」
サキ:「……うん。なんかさ、平家物語の冒頭って、平家だけの話じゃないんだね。兼実みたいに、平家を見てた側の人にも同じことが起きてるんだ」
エミのメモ📝
建久元年(1190年)、上洛した頼朝と兼実はついに対面する。『玉葉』によるとこれが記録に残る唯一の直接会談だった。頼朝は「外相は疎遠に見せかけていても、内実は全く疎間の心はない」「天下はいずれ立て直せる」と語ったという。二人は直接会ったのはこの一度きりだったのに、政治的パートナーシップを築いていたことになる。現代でいえば、リモートワークだけで信頼関係を作った社長と顧問みたいなものかも。
第3章 日記『玉葉』——40年の記録が伝えるもの
(エミが手元の文庫本をそっと撫でながら)
エミ:「兼実が残した日記『玉葉』の話をさせてね。長寛2年(1164年)——兼実16歳から建仁3年(1203年)55歳まで、約40年間にわたる大部の日記よ」
サキ:「40年間、日記つけ続けるってすごくない? わたしなんか3日坊主なのに……」
エミ:「しかも漢文でありながら、政治情勢から儀式の作法、個人的な感情まで精細に書いてあるの。院政から武家政治へ——日本史の大転換期を、朝廷のインサイダーが記録した一級史料よ」
サキ:「朝廷のインサイダー……なるほど。鎌倉幕府側の公式本『吾妻鏡』で、朝廷側サイドから見た記録が『玉葉』ってこと?」
エミ:「そのとおり! しかもね、『吾妻鏡』は幕府の公式記録だから、都合の悪いことは書き換えたり省いたりしてる可能性があるの。でも『玉葉』は個人の日記だから、もっと率直なのよ」
サキ:「公式SlackとXの鍵アカの違いみたいな? そりゃ鍵アカのほうがホンネ書くよね」
エミ:「いい例えね。実際、兼実は後白河法皇と近衛基通の関係を日記の中でかなり辛辣に皮肉ってたりするの。権力者の人間関係の裏側がリアルに書かれてる」
サキ:「うわぁ……平安版の暴露日記じゃん」
エミ:「暴露というか、冷静な観察者の記録ね。兼実の文章は『清冽で淡々として、凛とした緊張感がある』って評されてるの。感情的にならず、でも鋭い批評眼で時代を切り取ってる」
サキ:「へぇ……なんかかっこいいな。データを淡々と記録するエンジニアのログみたい」
エミ:「そうそう、まさにそういう感じ。そして現存する最古の写本は宮内庁書陵部に所蔵されている九条家旧蔵本50巻。朱書き部分は兼実の三男・良平の筆だとされてるわ」
エミのメモ📝
『玉葉』は別名『玉海』とも呼ばれる。これは五摂家の二条家が用いた呼称で、二条良基が命名したとされる。明治39〜40年に国書刊行会が九条家旧蔵本を底本として翻印(全3冊)。現在の研究者にとっても、平安末〜鎌倉初期を研究するうえで必読の基礎史料。
第4章 晩年——息子たちの死と、念仏への帰依
(カフェの窓から桜の花びらが風に舞うのが見える)
エミ:「政変で失脚した後の兼実の晩年は……正直、読んでいてつらいわ」
サキ:「……なにがあったの?」
エミ:「まず、最も期待していた長男の良通が22歳で早世したの。権中納言にまで昇っていたのに」
サキ:「息子が22歳って……若すぎるよ」
エミ:「兼実は深く落胆しながらも、次男の良経の育成に心血を注いだわ。良経は歌人としても優れていて、のちに摂政にまで昇った。九条家の復活を担う存在だったの」
サキ:「おお、じゃあ希望はあったんだね!」
エミ:「……でも、建永元年(1206年)、その良経も38歳で急死してしまうの。兼実の死の、わずか1年前のことよ」
サキ:「…………え」
エミ:「兼実は、孫の道家にすべての希望を託すしかなかった」
サキ:「……自分より先に息子が二人とも死んじゃうって……どんな気持ちだったんだろう」
エミ:「(少し声が小さくなって)……この時期の兼実は、浄土宗の開祖源空——つまり法然——への帰依がどんどん深まっていったの。建仁2年(1202年)に出家して円証と号したときも、良通・良経の母の授戒のときも、戒師は法然だった」
サキ:「法然さんって、『南無阿弥陀仏って称えれば誰でも救われる』って教えた人だよね?」
エミ:「そう。そして法然の主著『選択本願念仏集』は、実は兼実のために書かれたものだと伝えられてるの」
サキ:「ええっ!? 日本の浄土宗の根本経典のような本が、兼実のための書き下ろしだった!?」
エミ:「権力の座を追われ、息子を失い、老いゆく中で——ひたすら念仏に救いを求めた晩年だったのよ」
サキ:「……なんかさ、平家物語の冒頭がまた浮かんでくるよ。『おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし』って……兼実の人生、まるごとそれじゃん」
エミ:「本人が書いた『夢の如し、幻の如し』という言葉が、摂政就任のときの喜びだったはずなのに、晩年から振り返ると、全然違う響きに聞こえるわね」
サキ:「……うん。同じ言葉なのに、意味が変わっちゃうんだね」
(二人、しばらく散る桜を見つめている)
エミのメモ📝
承元元年(1207年)4月5日、九条兼実は59歳で没した。墓所は京都・法性寺で、現在は東福寺の東の「内山」と呼ばれる地に現存する。五摂家のうち九条・一条・二条の三家はすべて兼実の子孫にあたり、「九条流」と呼ばれる。40年間の日記と3つの摂家——兼実が後世に残したものは計り知れない。
【妄想再現ドラマ】もし兼実がもう10年長生きしていたら
エミ:「ここからは完全にIFの話——妄想再現ドラマね」
サキ:「おっ、来た来た!」
エミ:「兼実が亡くなった1207年の直後、何が起きたか知ってる?」
サキ:「えーっと……わかんない」
エミ:「同じ年に承元の法難——法然の念仏弾圧事件が起きるの。法然は讃岐に流罪、弟子の親鸞は越後に流罪になった」
サキ:「えっ! 兼実があんなに帰依してた法然が!?」
エミ:「もし兼実があと数年生きていたら、政治的な影響力は失っていたとはいえ、元・関白として何らかの庇護ができたかもしれない。法然弾圧の歴史が少し変わっていた可能性もあるわ」
サキ:「そっかぁ……そしたら浄土宗や浄土真宗の歴史も変わってたかもしれないんだ」
エミ:「一方で、孫の九条道家もまたすごいドラマチックなのよ」
サキ:「あー、おじいちゃんの期待を一身に背負った孫ね。道家って、結局どうなったの?」
エミ:「承久の乱、息子が将軍に……それはまた別の機会に」
サキ:「(出た、エミちゃんの引っ張り!)……あ、そういえばさ、兼実って玉葉の最後にはなんて書いてたの?」
エミ:「現存する最後の記事は建仁3年(1203年)。出家した翌年ね。その後4年間は……記録が残っていないか、書かれなかったのかもしれない」
サキ:「……ペンを置いた後の4年間か。それはそれで、なんだか深いね」



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