長暦3年2月18日(1039年3月15日) 延暦寺の僧侶3000人余が藤原頼通(よりみち)の高倉第門前で、明尊(みょうそん)の天台座主補任反対を訴える。いわゆる強訴。扶桑略記より。
画像は、延暦寺などの僧侶の傲慢さを天狗にたとえた重要文化財「天狗草紙 延暦寺巻」の一部(鎌倉時代・13世紀、東京国立博物館蔵 Colbaseより)。
藤原頼通(ふじわらのよりみち)とは?
992~1074年
摂政・関白を務めた摂関期の藤原氏のトップ。宇治に平等院鳳凰堂を建てたことで知られる。
摂政太政大臣藤原道長の息子で、母は左大臣源雅信の娘の倫子。1017年、父から譲られてわずか26歳で後一条天皇の摂政となる。2年後には関白に。1027年(万寿4年)に父道長が死去して、実権を握る。
1051年(永承六年)には、陸奥の安倍氏が反乱を起し、源頼義に追討を命じられる、いわゆる前九年の役が勃発。また、宮中でも自立を図る天皇と対立。晩年は平等院に住み、83歳で没した。
明尊(みょうそん)とは?
971~1063年
書の名人として有名な小野道風の孫(小野篁の玄孫)にあたる。
1017年(寛仁元年)に権律師。1021年(治安元年)に権少僧都に任ぜられ、1028年(長元元年)には権大僧都に。
1030年に比叡山の麓の園城寺のトップ(長吏)になるも1年で辞任。
その後、1038年(長暦2年)に大僧正になり、再び園城寺長吏になる。天台座主の就任が見込まれたが、1039年に比叡山の3000人の僧侶に反対(強訴)により、その人事は凍結。ほとぼりがさめた1048年(永承3年)に第29世の天台座主に就任する。93歳の長寿を全う。90歳のお祝いでは、藤原頼通が白河亭で宴席を設けた。
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