杉原千畝は「ナチスのホロコーストから」ユダヤ人を救ったのではなかった

戦争にまつわる逸話は、善行でも、悪行でも、いずれも「盛られる」傾向が強い。色々な政治的な思惑を含めて、その伝説は史実から微妙にずれて羽ばたいていく。
駐リトアニア外交官だった杉原千畝がナチスのホロコーストから逃れてきたユダヤ人たちに、日本本国の意向に反して、日本へのビザを多数発給して、6000人もの命をナチスの魔の手から救った――。
第二次世界大戦(太平洋戦争)で、敗戦国の日本人の「いい話」は、極めて少ない。それだけに多くの日本人にとっても、<スギハラチウネ>という人道的な良心を持った日本人が戦争中にいたことは、誇りになっているだろうし、私も誇りとしている。

ところが、近年の研究で、なんと杉原千畝がホロコーストから守るためにビザを発給したのではなかったことが判明しているというのだ。
大いに誤解を受けかねないので、冒頭に答えを明記しておくが、杉原が、様々な困難を乗り越えて、ユダヤ人にビザを発給して多数(2000人以上)の命を救ったのは事実だ。
ただ、このときに杉原にビザをもらったユダヤ人たちが脅威を感じていたのは、ナチスのホロコーストではなく、信仰の自由を認めないソ連のスターリン主義に対してだったということだ。
杉原がリトアニアにいたとき、ドイツはまだユダヤ人のホロコーストを始めていなかったのだ。

2019年3月15日に愛知県立図書館(名古屋市)で行われた講演会、「リトアニアとイスラエルから見た『命のヴィザ』:杉原千畝研究の最先端」で明かされた。講師は名城大学都市情報学部の稲葉千晴教授。
『バルチック艦隊ヲ補足セヨ』(成文社、2016年刊行)が近著。また、日露戦争に関連して、伝説的なインテリジェンス(情報員)明石元二郎大佐について、「坂の上の雲」で培われている明石工作神話を打破し、諜報戦略の実像を描いた『明石工作 謀略の日露戦争』(丸善ライブラリー、1995年刊)がある。この2冊も合わせて読んだがとても面白い読書体験だった。いずれまとめたい。

講演の趣旨は、
・ビザの対象は、ソ連に武力征服されたうえに、信仰の自由を禁じられた、東ポーランドの敬虔なユダヤ教徒が中心。
・背景には、人口200万人の小国リトアニアに、ドイツとソ連に武力併合させられたポーランドから、特にソ連側の東ポーランド(隣接する)から3万人もの難民が押し寄せた「難民問題」があった。
・ソ連がポーランドに続いて、リトアニアを含むバルト3国を無血併合し、ソ連となることに伴い、ユダヤ教徒の信仰の自由がなくなる危機。
・圧迫しているソ連がなぜシベリア鉄道の使用を許したかというと、高額(アメリカドルでの支払い)な旅費を取るため。
・杉原だけでなく、在リトアニアのオランダ領事も奔走し、領事同士の連携でなされた。
・「日本政府の意向に反して」ではなく、当時の在外領事たちに緊急時に認められていた独自の判断

稲葉氏によれば、「ナチスからでなくソ連から逃れるため」ということが「初めて」わかったのは、3年前だそうだ。2016年頃か。
時系列で事実を並べていけば、千畝がビザを発給した時点で、ナチスがホロコーストを始めていない(ゲットーへの隔離など差別はあった)ことが明確なのだが、「リトアニアのことを誰も調べていなかった」のがその理由という。端的に言うと、日本人の誰もが、杉原千畝の妻の著書を頭からずっと信じ込んでいた、ということになるのだが。

稲葉氏が紹介したそのリトアニアの研究者は、シモナス・ストレルツォーバス氏(Simonaz Strelcovas)。1972年リトアニア生まれで、当地の旧カウナス<リトアニアの首都>日本領事館をつかった「スギハラ・ハウス」の元主任研究員で、現在はシャウリャイ大准教授。(リトアニアの大学だろうか?)

会場で配られた、ストレルツォーバス氏による岐阜新聞への寄稿(2018年10月14日)の概要を紹介したい。

ストレルツォーバス氏は、現代の難民問題に通じる大量の難民問題が背景にあったと指摘し、
「大量のユダヤ人がリトアニアに押し寄せたのは、ソ連とナチス・ドイツが1939年9月にポーランドに侵攻、分割したためだ。無神論国家のソ連がユダヤ教徒を弾圧することを彼らは恐れた。人口わずか二百数十万人の小国リトアニアは対応に苦慮した。外国から得た難民支援金の3割をユダヤ人に与え、残りを衣食住の提供に充てた。(略)財政が苦しくとも排撃しなかった。」
「その一方で、これ以上の負担に耐えられないと判断したリトアニア政府は、ユダヤ難民をシベリア経由で移動させる交渉をソ連と進め、40年4月に合意に達した。ソ連は既に、ドイツとの秘密議定書で、リトアニアの編入を決めていた。ソ連としても、2か月後には自国領とするリトアニアに大量の難民を残しておきたくはなかった。シベリア鉄道の運賃を払わせれば、不足している外貨も手に入る。」
「杉原が日本通過ビザの発給を始めたのは40年7月だが、大部分の難民はすぐに動かなかった。ユダヤ教神学生7人が、安全を確かめる先遣隊となり、ソ連から神戸に着いたのは同年12月末である。この連絡で難民は安心し、大量移動が始まった」
などと述べる。
「杉原が「命のビザ」を発給した時点では、ナチスによる絶命収容所は機能していなかった。ユダヤ難民はナチスではなくソ連から逃れたのだ。だがリトアニアに残ったユダヤ人の多くが、後にナチス占領下で命を落としている」と、当時はナチスから逃れるためでないとしている。
なるほど、ドイツがリトアニアなどバルト3国を併合するのは、不可侵条約を結んでいたソ連に奇襲をかけたバルバロッサ作戦(1941年)で、対ソ連戦を始めてからだ。

コンテンツ

東西に分割されたポーランドと、東ポーランドに隣接するリトアニア

1939年9月1日 ドイツがポーランド侵攻。同17日、ソ連がポーランド侵攻し、ポーランドは東西に分割される。
当時のポーランドは現在のポーランドの国境とも異なるので非常にややこしいのだが、当時の北部は「東プロイセン」つまりドイツの飛び地もあった。リトアニアに陸路で面しているのは、ソ連に併合された東ポーランドである。そのため、リトアニアに逃げられたのは、基本的に東ポーランドからだったという。

稲葉氏の講演会での発表では、(おそらくストレルツォーバス氏の研究と思われる)リトアニアへの難民の数は2~3万人だった。リトアニア政府が難民救済のために名簿を作っていたようで、内訳は、カトリック信者のポーランド人60%、ユダヤ教ポーランド人40%、ユダヤ教徒(人)難民の86%が東ポーランドからの難民で、その多くがユダヤ教の神学校(イエシヴァ)の学生、教師と教師の家族(男性8割、女性1割、子ども1割)といった細かい数字もわかっているそうだ。

アンネ・フランク(ドイツで生まれたユダヤ人)のようにナチスに迫害されたユダヤ人というと、金融業など裕福な家族のイメージが強い。だが、ドイツ・ソ連のポーランド侵攻では、とくにソ連が占領した東ポーランドの生業のある一般的なユダヤ人の多くは残った可能性が高いようだ。ただ、ソ連は、カトリック修道院を含めて宗教施設を閉鎖したため、信仰することが「職」のユダヤ教の神学校の教師や学生は逃げるしかなかったが、この時点では食いぶちのある土地を離れるポーランド国籍のユダヤ人は意外と少なかったのだろう。現在でも、シリア難民は内戦が長引くにつれて増えていくことからも、そうした心理はわかる。なお、難民となったポーランド人の6割は、ポーランド軍人や西部の土地をドイツに奪われた農民という。(ユダヤ人も国籍はポーランドやドイツなどなので、厳密にはリトアニアへの難民はみなポーランド人になる)

杉原千畝命のビザの半数はユダヤ教の神学校関係者

講演会で資料配布された別の新聞(中日新聞2018年10月5日)に、イスラエルのハイファ大学東アジア研究所教授のロテム・コーネル教授の「千畝が救った神学生たち」の寄稿があった。
コーネル氏は、「杉原が救ったユダヤ人の半数以上は、ポーランド東部(現在のベラルーシ)に点在する神学校の学生や教師だった。(略)東部はソ連占領下となり信仰の自由が奪われた。カトリック修道院やユダヤ教神学校が次々と閉鎖に追い込まれた。多数の神学者が集う小都市ミールの神学校は決断を迫られた。自由な独立国リトアニアに脱出したのだ。39年晩秋、ミール神学校の全員がリトアニアの当時の首都カウナス近郊に難民として逃れてきた。」
「ところがリトアニアも彼らの安住の地ではなかった。40年7月半ばに同国はソ連に併合され、再度信仰を禁止されたのだ。しかしドイツ支配下の西欧への脱出は無理だった。聖地エルサレムに南下するルートは安全が保証されなかった。唯一可能性があるのは日本に東行して第三国に逃げるルートだった。そして神学生4人がカウナスの日本領事館を訪れた。」
「(その一人の)彼の回想録によれば、ビザ発給を決断した杉原は当初、難民の所持する安全通行証(パスポート代替書類)に自筆で日本への入国許可を記していた。だから発給業務は遅々として進まなかった。見かねた神学生はビザのスタンプを作って発給を手伝い、神学校の関係者全員分のビザを入手した」()は筆者注

千畝のビザの主体は、ソ連になれば粛正される可能性が極めて高いユダヤ神学者や神学生だったのだ。例え、ナチスのホロコーストが理由でなくても、差し迫った命の危機に対して、超法規的な英断をしたのは紛れもない事実である。
稲葉氏の講演によると、リトアニアではソ連によるユダヤ人の虐殺はなかった。しかし、1941年6月末に、ドイツが突然ソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)し、リトアニアも占領。1942年初めのバンゼー会議で、ナチスドイツはユダヤ人の大量虐殺を決める。そのため、リトアニアに残ったユダヤ難民の98%がナチスに殺されたという。
結果的に、杉原千畝発給のビザを使ったユダヤ人はナチスのホロコーストから逃れることにはなった。ただ、ホロコーストから逃す「ために」発給したというのは歴史的な事実から間違っている。明白な事実を年表として並べることでも明らかなことが、数年前までリトアニア人に指摘されるまで、誰も知らなかったというのだから、歴史への思い込みとは怖いものだと改めて感じた。
「なぜ誰もそれを確かめなかったのか」と唖然としたが、<これまでどの研究者も指摘していなかった>というのは、講演会ゆえの稲葉氏のリップサービスかなとも感じたので、2015年10月刊行の白石仁章『杉原千畝ー情報に賭けた外交官』(新潮文庫、電子版は2016年3月刊)を読み直したところ、「ナチスの手からユダヤ人を救ったのか、それとも・・・」の項目で、「ナチスの手から救った」とするのは「歴史の後知恵」に過ぎない」(電子版432ページ)と明記していた。この本は2011年に『諜報の天才 杉原千畝』として新潮選書で刊行された本を改題し、文庫化にあたり大幅な加筆修正をしたとある。そのため、この「歴史の後知恵」の指摘が、選書の段階でもあるかどうかは後日確認してみたい。

オランダ領事との人道的「超スタンドプレー」

話しを戻そう。
講演会では、命のビザが、杉原千畝ひとりの奮闘によるものではないことが明かされたことも、興味深かった。
発給したビザの数は2000通を超えるという。ほぼ全員がビザを使ったとすれば、二千数百人の命が救われたわけだが、ユダヤ人たちの目的地は、一般的に「アメリカ」と思われている。彼らは全員、シベリア鉄道でシベリア大陸を横断し、極東の港ウラジオストクから日本海を渡り、敦賀(福井県)の港で、日本に到着した。その後は、神戸や横浜などの国内にとどまった人もいたが、かなりの数がサンフランシスコやバンクーバーへ渡ったとされている。
ところが、ビザが押された安全通行証には、行き先が明記されている。行き先は「キャラソー」とある。キャラソー島というのは、カリブ海に浮かぶ島で、当時はオランダ領だった。
千畝のビザはあくまで日本は通過地。最終目的地が(日本以外に)保証されていないとビザは出せないという建前だった。そのため、安全通行証には、千畝の日本通過ビザとともに、キャラソービザと呼ばれるオランダの駐カウナス領事が押したビザも押されている。千畝のビザが「超法規的」だったのと同様に、超法規的だった。稲葉氏によれば、「キャラソービザは実はビザではない。オランダ領のキャラソーに上陸する時にはビザは不要ですという内容で、一見するとビザにみえるとけどビザそのものではない」のだそうだ。このときにはオランダはドイツに占領されていた(1940年5月)。
オランダ領事は本来ならば「本国」となったドイツの許可を得る必要があっただろうが、ユダヤ排外を進めるドイツはこれを認めなかっただろう。領事はスタンドプレーで「ビザのようにみえるけど、実はビザではないなにか」を千畝の日本通過ビザを有効にするために「つくった」のだ。

当時は、各国の領事に緊急時に自分で判断する裁量権が認められていた。杉原も、オランダの外交官も、自分たちができるギリギリの合法的措置を模索したのだ。

杉原千畝という一人の英雄だけでなく、杉原ほど名の知られていないもう一人の英雄とのタッグプレーだったのだ。もちろん、ほかに多くの人たちが協力・尽力した結果であろう。一人の英雄的な行動が歴史を動かす、もしくは歴史にあらがうのではなく、ヒューマニズムあふれる複数の人たちがネットワークをつくることで、はじめて、人間の悪意と戦えることの証明でもある。

スターリンよりはヒトラーのほうがマシという究極の選択

現代人に「ファシスト」と「共産主義」のどっちがいいかと聞けば、たいていは後者をあげるだろう。だが、第二次世界大戦中は必ずしもそうとはいえなかった。
欧米の歴史研究家や軍事研究者らが第二次大戦の「もしも」を想像ではなく、史実からの可能性として論じたハロルド・C・ドィッチュ、デニス・E・ショウォルター編、守屋純訳『ヒトラーが勝利する世界ー歴史家たちが検証する第二次大戦・60の”if”』(学研、2006)の中に、 ドイツ軍事史研究の専門家でアメリカ合衆国陸軍大学教授(アメリカの州兵の大佐)サミュエル・J・ニューランドが、「ヒトラーが真剣にソビエト人民を味方につけようと努力していたら」の項目を書いている。

「連合軍がヒトラーの「ヨーロッパ要塞」を侵攻した時、実に多数の非ドイツ人がドイツ国防軍で忠実に勤務し、また国防軍と共に戦っている光景を目にして、連合軍将兵は一様に驚きの声をあげた。ノルマンディー上陸作戦では、ドイツ軍の軍服を着たコサックとトルキスタン兵が連合軍を迎え撃った。(略)ドイツ国防軍に勤務することになったソ連人民の大半は、四つの動機を持っている。その第一は、共産党体制への強い憎悪である。ドイツ軍はソ連の占領地域で虐殺を行ったが、その期間はせいぜい二、三年にすぎない。そのため、ドイツ本来の占領政策に反して、虐殺の数も場所も自ずと限られたものになった。しかしドイツ軍がやってくる以前に、ソ連の人民はすでに二〇年以上にわたって自国政府による蛮行を耐え忍んできた。レーニンとボルシェヴィキの権力奪取後数年のうちに、反革命分子は処刑されるか、ソ連の文化とは切り離せない要素である強制収容所送りになった。これにより、革命の期間中に多数の人命が失われると共に、ソ連人民に、体制に反対の意を表明することを困難にさせた。だが生き延びた者やその家族は、マルクス・レーニン主義、それにスターリン主義のいずれにも強烈な憎悪を抱くようになった。そして一九四一年から翌年にかけて、ドイツ軍によってソ連勢力がヨーロッパ・ロシアから駆逐されると、即座にこの憎悪が噴出した。(略)」
「これらの人民の多くがドイツ軍を自分たちの解放者として歓迎し、進んで連隊、ことによると師団さえ提供しようとしたとしても、何ら驚くにあたらない。(略)」
「ドイツ軍がカフカスに侵攻した時、ここでも自治区設立の計画が持ち上がった。特にドイツが期待を寄せたのはコサック自治区であった。この試みでは、コサックに彼ら自身の地方政府の樹立を許可した。」その政府は確立された伝統に基づき、農業・教育・厚生を司る閣僚から構成されていた。さらにコサックのアタマン(頭領)には、ボルシェヴィズムから郷土を解放するための軍隊と、その指揮権も与えられていた。しかし、一旦ドイツ軍がカフカスから駆逐されると、このコサック自治区の住民の相当数がドイツ軍と共に西方に移動した。終戦時にはコサックは、なんと北イタリアに駐屯していたのだ。」

このように、ファシストも共産主義も、人民を選別して格差をつけるが、民族別の階級のほうが思想による階級分けよりもはるかにマシと思っていた人がかなり存在したことは、忘れられがちだ。情報の少ない中で「究極の選択」を選ぶことになったユダヤ教徒を含むポーランド人ら亡国の難民たちの苦渋を想像することすら難しい。

なお、シモナス・ストレルツォーバス氏の千畝の研究は現在日本語に翻訳中で2019年中の刊行を目指しているそうだ、楽しみだ。

2019年1月に名古屋市が発行したパンフレット。ビザ発給の状況を「ソ連によるリトアニア併合の動きから」、6000人と言う数は使わず「2000通を超えるビザを発給」などとしている

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