平安時代の「まさかの外敵襲来」を撃退したのは、あの中関白家のワルだった!?寛仁3年(1019年)4月13日 女真族「刀伊」(とい)が肥前国松浦郡に襲来

「刀伊の入寇」
寛仁3年4月13日(1019年5月20日) 女真族「刀伊とい」(朝鮮語で夷狄の意味)が肥前国松浦郡に襲来する。大宰権師・藤原隆家らがこれを撃退することに成功する(寛永3年4月16日大宰府解)。

(春の午後、神保町の古書店街を歩くエミとサキ)

サキ:「エミちゃん、今日って何月何日だっけ」

エミ:「4月13日よ。どうしたの急に」

サキ:「いやぁ、365日シリーズのネタ探しかなって。なんかあるの?」

エミ:「あるわよ。しかもかなり大事件。寛仁かんにん3年の4月13日――西暦だと1019年の5月20日なんだけど、女真族じょしんぞくの海賊集団が九州に襲来した日なの」

サキ:「え、外国から攻めてきたってこと!? 平安時代に!?」

エミ:「そう。しかも相当な規模。約50隻の船団で、対馬・壱岐・筑前・肥前と次々に襲撃した。これが世に言う刀伊といの入寇』よ」

サキ:「”とい”……? なんか響きがかわいいけど、中身はぜんぜんかわいくないやつだ……」

「刀伊」って何者?

エミ:「刀伊といっていうのはね、朝鮮語で”蛮夷”とか”夷狄”を意味する”Doe”の音訳なの。高麗の人たちが、自分たちの北方に住む女真人のことをそう呼んでたのよ」

サキ:「つまり高麗から見ての呼び方が、そのまま日本に入ってきたんだ」

エミ:「そういうこと。この事件のあと、高麗から解放された捕虜たちが日本に帰ってきて、彼らの口から”刀伊”って言葉が伝わったんだと考えられてるわ」

サキ:「へぇ〜! 言葉ひとつとっても、事件の経緯が見えてくるんだね」

2週間の恐怖――襲撃の全貌

エミ:「時系列で見ていくとね、3月末に対馬、次に壱岐、4月7日には筑前の怡土いと郡・志麻しま郡・早良さわら郡を立て続けに襲ったの」

サキ:「早良って……今の福岡市のあたりじゃん!」

エミ:「そうなのよ。そして4月8日には那珂なか郡、9日には博多の警固所にまで来てる。もう大宰府のお膝元よ」

サキ:「やばすぎる……。上陸してきたってことは、直接戦ったの?」

エミ:「ええ。彼らの戦い方がまた凄まじくてね。一隻に約50人が乗り込んでいて、上陸するとほこや太刀を持った二、三十人が先頭に立って、弓矢を持った七、八十人が後に続いて隊伍を組む。それが十隊、二十隊で一気に荒らし回ったの」

サキ:「ちょっと待って……50人×50隻って、2500人規模ってこと?」

エミ:「理系の計算、さすがに速いわね。そう、かなりの大集団よ」

サキ:「被害は……?」

エミ:「……死者は壱岐守いきのかみ藤原理忠ふじわらのまさただをはじめ365人。連れ去られた人は1289人にものぼったわ」

サキ:「……1289人も連れ去られたの? それって……」

エミ:「馬や牛を斬り殺して食べ、老人や子どもは殺害して、壮年の男女を捕虜として連行した。穀物を奪って、家を焼いた。……記録を読むだけでも、本当に胸が痛くなるわ」

サキ:「…………」

エミ:「でもね、この話にはヒーローがいるの」

撃退した男――藤原隆家という「問題児」

サキ:「ヒーロー?」

エミ:「大宰権帥として現地で指揮を執った藤原隆家ふじわらのたかいえ。この人がね、とにかく”持ってる”人なのよ」

サキ:「どういう人なの?」

エミ:「関白・藤原道隆ふじわらのみちたかの息子で、中宮定子ていしの弟。つまり『枕草子』の世界のど真ん中にいた人物よ」

サキ:「ええっ!? 定子さまの弟!?」

エミ:「しかもね、この隆家くん、若い頃はなかなかのワルでね。16歳で参議、翌年には権中納言っていう超エリートコースを歩んでたんだけど……花山法皇かざんほうおうに矢を射かけるっていう大事件を起こして」

サキ:「法皇に矢!? パンクすぎるでしょ……」

エミ:「長徳ちょうとくの変ね。兄の伊周これちかと一緒に処分されて、出雲に左遷。これは叔父の藤原道長ふじわらのみちながとの政争に敗れたっていう意味でもあるんだけど」

サキ:「あの道長おじさんの甥っ子なんだ……。で、そこから大宰府に行くことになったの?」

エミ:「紆余曲折あってね。罪を許されて帰京して、権中納言に復帰するんだけど、その後、眼病を患ってしまって。大宰府に来ていた唐の医師に診てもらうために、自分から大宰権帥として赴任したの」

サキ:「え、目の治療のために九州に行ったら、外敵が来ちゃったってこと?」

エミ:「そうなのよ! 運命の悪戯としか言いようがないでしょう? でも結果的に、この”元エリート問題児”が現場にいたからこそ、迅速に防御体制を組めたの」

エミのメモ📝

隆家は対馬からの報告が届くと、すぐに府官や在地の豪族たちを動員して博多の警固所に派遣。賊徒の襲来に対して次々と撃退に成功しています。4月13日、賊徒は最後に肥前松浦郡を襲って数十人の被害を出しましたが、これを最後に日本から姿を消しました。今日4月13日は、まさにこの戦いの最終日なんです。

朝廷vs現場――「褒美は出すべきか」論争

サキ:「でもさ、朝廷って京都にいるんだよね。現場から遠くない?」

エミ:「いいところに気づくわね。大宰府からの第一報が京都に届いたのは4月17日。戦いが終わった4日後よ」

サキ:「えっ、じゃあ朝廷が動いた時にはもう終わってたの……?」

エミ:「そうなの。それで面白いのがここからなんだけど――朝廷では褒賞を出すかどうかで議論になったのよ」

サキ:「え? がんばって戦ったんだからご褒美あげるのが普通じゃない?」

エミ:「ところがね、藤原公任ふじわらのきんとう藤原行成ふじわらのゆきなりが『褒賞を決定する前に戦闘は終わっているのだから、褒賞する必要はない』って言い出したの」

サキ:「はぁ!? それって……”もう終わっちゃったからいいじゃん”ってこと? 命かけて戦ったのに!?」

エミ:「サキちゃん、怒りのポイントが完全に正しいわ。そしてここで声を上げたのが藤原実資ふじわらのさねすけ。彼はこう言ったの。『もし今回褒賞を行わなければ、今後進んで戦う者はいなくなるだろう』って」

サキ:「実資さん、めちゃくちゃまともだ……!」

エミ:「結局、実資の意見が通って、隆家が推薦した勲功者13名に褒賞が与えられたわ。実資は『小右記しょうゆうき』の著者としても知られてるんだけど、こういうところが実資らしいのよね」

サキ:「なんかさ……現場で命張って戦った人たちと、京都で”手続き論”やってる貴族たちの温度差がすごくない?」

エミ:「……それ、千年前の日本だけの話かしらね」

サキ:「…………刺さるわぁ」

高麗が救った日本人捕虜

エミ:「最後にもうひとつ大事な話があるの。刀伊は日本から撤退した後、再び高麗を襲ったのね。でも今度は待ち構えていた高麗軍に撃破されたの」

サキ:「おお! 高麗の方も被害を受けてたんだもんね」

エミ:「そう。そしてね、この時に高麗軍は、捕虜にされていた日本人300余人を保護してくれたの。そして高麗の使節が、彼らを日本に送り届けてくれたのよ」

サキ:「うわぁ……高麗の人たち、ありがとうって言いたい……!」

エミ:「当時、日本と高麗の間に正式な国交はなかったのよ。それでも人道的に捕虜を送り返してくれた。この事件をきっかけに、九州・壱岐・対馬から高麗への貿易船が通うようになったとも言われてるわ」

サキ:「国交がないのに助けてくれたんだ……。なんかさ、国と国の関係って、公式な外交だけじゃなくて、こういう”人と人のつながり”もあるんだね」

エミ:「サキちゃん、今日すごくいいこと言うわね……」

サキ:「えへへ。エミちゃんの話がいいからだよぉ」

締め

エミ:「というわけで4月13日は、刀伊の入寇の最終日。元エリート問題児・藤原隆家が九州で奮闘し、平安時代の日本を外敵から守った日なの」

サキ:「平安時代って、なんとなく雅で穏やかなイメージだったけど、こんな激しい戦いがあったんだね」

エミ:「そうなのよ。元寇の250年も前に、九州はすでに外敵と戦っていた。でもこの事件、教科書ではあんまり詳しくやらないでしょう?」

サキ:「うん、”刀伊の入寇”って名前は聞いたことあったけど、中身はぜんぜん知らなかった。今日の話、めっちゃ面白かった!」

エミ:「今度、福岡の太宰府に行ったらこの話を思い出してね」

サキ:「太宰府天満宮でお参りしながら隆家さんに感謝しよ……!」


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