情報を軽んじて軽んじて山本五十六を死なせた帝国日本海軍の「海軍甲事件」「海軍乙事件」

小が大を撃つには、情報戦で勝ることは必須だ。
その点で、暗号がアメリカに漏れているにもかかわらず、その失敗を見て見ぬふりをして、大きな犠牲を積み上げていった日本帝国陸軍と海軍、外交官ら官僚たちによる第二次世界大戦の歴史は、現代人にとって「学び」が多い。

ヨーロッパでロシア国内の諸民族の独立運動などを支援した情報将官明石元二郎陸軍大佐について書かれた、静岡県立大名誉教授(メディア学)前坂俊之『日露インテリジェンス戦争を制した天才情報参謀 明石元二郎大佐』(新人物往来社、2011年)を読んで、一層その思いを募らせた。

1905年(明治38年)の日露戦争は、一方的な勝利におわった日本海海戦だけで勝利したわけではない。むしろ、ロシアのバルチック艦隊の動向を知るための諜報活動の勝利という面が強い。

明石は当時の金額で100万円(国家予算2億3000万円、100万円のうち27万円は明石は使わずに帰国した。100万円は現在価値で約80億円相当)の膨大な活動資金を使い、有益な情報を日本へ送り続けた。
明石が直接関与した対ロシア工作が目に見える形では成功しなかったことや、レーニンへの資金援助がのちの時代の「伝記」で付加された虚実だったことなどを合わせても、明石を含めて、多くの情報将官、外交官、日本の商社などの情報収集の活動は、日露戦争の趨勢に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。

興味深いエピソードとして、ロシアは報道の自由があったために、ロシアの新聞などの公開情報で軍の動きが筒抜けだったということがあげられている。きのう(2019年4月1日)の新元号の発表でも、「情報の秘匿が守られた」ことを非難するような一部報道もあったが、考えさせられる「歴史」である。

「日露が戦っている最中、ロシアの形勢を探る材料として、外国の新聞や雑誌を購読した。それでわかったことが、ロシアは国内における出版物に対してそれほどの検閲をしていないことだった。そのため外国の新聞に対しても言論に束縛を加えることはしなかった。つまり、ロシアは守秘に関しては実に鈍感ということである」(明石が書いた報告書の現代語訳の一部、211ページ、前坂俊之『明石元二郎大佐』)

山本五十六の死も無益なものに

一方の第二次世界大戦の日本。
「名将」と称されることもある海軍連合艦隊司令長官山本五十六は開戦前に、
「陸軍のバカどもには困ったものだ。南も討て、北も討つべしなんて騒ぐが、海軍は広い太平洋で戦わねばならん。五・五・三の比率の海軍力でアメリカを向こうにまわしてどう戦えというのか。しかも対米戦となればイギリスも加わるから、十対三の戦いだ。こんな簡単な算術の問題すらわからんのだから困りものよ…」(286ページ、前坂俊之『明石元二郎大佐』(新人物往来社、2011年)
と、こぼしたという。

その山本率いる海軍も似たり寄ったりで、「ミッドウェー海戦(六月五日)前に連合艦隊トップは「米軍は弱い」と鼻歌まじりだったという。その結果、レーダーをもつ米艦隊の不意打ちでトラの子の空母四隻と航空機三百機を失う大敗を喫した」(同上書)あげく、山本の行動も暗号が米軍にばれており、待ち伏せに遭い搭乗機が撃墜されて死亡する。昭和十八年四月十八日のことだ。

海軍トップが戦闘ではなく、前線視察の途中で死亡する信じられないこの出来事は、「海軍甲事件」として事件と大問題となった。
しかし、そこからの海軍がさらにひどい。

「海軍は徹底調査するが、ここでも「暗号は漏れていない」との組織防衛のため誤判断を下した。」(287ページ、同書)

甲ということは、「乙」もある。

さらに、後任の古賀峯一長官は同十九年三月三十二日、搭乗した飛行艇が遭難して殉職した。このとき、二番機に同乗していた福留繁参謀長もセブ島に不時着した。だが、福留は「生きて虜囚の辱めをうけず」の戦陣訓を厳守せず、最重要の機密書類を地元ゲリラに奪われながらノコノコ生還した。この重大な事実は隠蔽され、海軍上層部も福留を栄転させて事実を糊塗して責任追及せず、解読された暗号の改変もおこなわず、筒抜けの失敗作戦を繰り返す二重三重のミスを重ねて多大な犠牲と損害を出した。これが「海軍乙事件」である。(287ページ、同書)

「ノコノコと生還」したことは、別に悪いとは思わないが、情報漏れを組織防衛のために認めないということには驚きとあきれしかない。

明治時代の明石をはじめとする日本人が情報入手に金と時間と力を費やしたことは、現代の「強国ではなくなりつつある日本」にとっても示唆に富む。
本書の大半は、明治時代の情報取り(インテリジェンス)の重要性について書かれているのだが、長くなりそうなので、稲葉千晴『明石工作 謀略の日露戦争』(1995年、丸善ライブラリー)と稲葉千晴『バルチック艦隊ヲ補足セヨ』(2016年、成文社)とともに別の機会に書いていきたい。

なお、海軍甲事件と乙事件の概要は、Wikipediaでも項が立てられている。

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