歴史に所有権があると言う人は、現在の日本では、右翼でも(ほとんど)いないだろう。
ましてや、神話の世界と現実の端境期にあたる古墳時代のことについては、なおさらだ。
進歩系(日本のリベラル、左翼とはかなりニュアンスが異なるようだが)の大手新聞社、中央日報の2018年12月の論説委員によるコラムがこれだ。
日本書紀は漢文なので、とりわけ美文調の表現が中国の古典と同じことは日本でも常識である。
任那(朝鮮半島南部にあった小国連合、伽耶とほぼイコール)が日本の支配下ではなく、同盟関係だったとの結論も、現代の研究では妥当とみられている。
それよりも、恐ろしいのが
「歴史には原産地表示がないので、守ってこそ自分のものになる」
との言葉だ。
韓国では、歴史が事実かどうか、よりも、誰のものか、その歴史の所有者は歴史を好きに変えたり、使ったりできると考えているようだ。
このような考え方は、日本人にはありえない、と言いたいが、かつて戦前の日本はこうした皇国史観を持って、歴史を政治に利用していたことも事実だ。
戦前を美化したい日本人は、現在の韓国の知識人のトップクラスであろう新聞社の論説委員が、このような3四半世紀遅れた歴史観を持っていることで、安心するのではなく、自らを省みる機会にしてほしい。
この記事へのコメントはありません。