【2026年10月31日(土) 銀座のカフェ 朝】
(エミが手帳を広げ、サキが湯気の立つカフェラテを両手で包んでいる)
エミ:「週末のきょうは五本持ってきたわよ」
サキ:「了解! じゃあ、いちばんインパクトのあるやつからお願い」
1 秀吉の直筆書状に「毛抜きと爪切りを100個ずつ」
サキ:「毛抜きと爪切り……? 文化財ニュースの見出しにしては、ずいぶん生活感があるね」
エミ:「岐阜県各務原市の内藤記念くすり博物館で、豊臣秀吉の直筆とみられる書状が5通見つかったの。博物館が10月29日に発表したのよ」
サキ:「どこに眠ってたの?」
エミ:「古文書を保管している倉庫、大同薬室文庫からよ。5通のうち4通は全文が直筆で、1通は直筆の花押があるそうなの。後の持ち主が全部を1枚につなげて、長さ3.49メートルの巻物に仕立てていたんですって」
サキ:「3.49メートルを5通で割ると、1通あたり単純計算で70センチくらいか。ただの目安だけどね。で、いつごろの手紙なの?」
エミ:「1570年代、秀吉が織田信長の家臣だった時代のものとされているわ。うち1通は、調査した橋本政宣・東京大学名誉教授が元亀元年(1570)の書状とみているの。名誉教授は8年かけて解読したそうよ」
サキ:「8年! それで、毛抜きと爪切りは?」
エミ:「妹の朝日の夫に宛てた1通でね。正月に湯治に行くので、家来の女性たちに配る毛抜きと爪切りを100個ずつ、急いで持ってきてほしいと頼んでいるの」
サキ:「うわぁ、大河ドラマで朝日とその夫の仲良しなのに引き裂かれたのを見たばかりだと、なんか切なくなる」
エミ:「100個ずつって、すごい数。配る相手が多かったんだろうね。名誉教授は『後に天下人となる秀吉の細かな心遣いを示すもの』と話しているわ」
サキ:「天下人になる前から、部下へのお土産に抜かりがなかったんだ。人たらしの原点って感じ」
エミ:「ええ、秀吉の気配りには、爪の甘さがないわね」
サキ:「……うまくないよ。毛抜きと爪切りだけに、って言いたいんでしょ」
エミ:「それ言うなら、わたしに言わせてよ!」
2 「丹羽長秀の書状」は、豊臣秀長の書状だった
サキ:「秀吉つながりで、こっちも気になってた。京都の善峯寺の書状が、別人のものだったって?」
エミ:「そう。善峯寺に伝わる文書が、丹羽長秀の書状とされてきたんだけど、再調査で秀吉の弟、豊臣秀長のものだと分かったの。調べたのは京都女子大学名誉教授の母利美和さんよ」
サキ:「なんで丹羽長秀だと思われてたの?」
エミ:「表紙に『羽』の字があって、文末に『長秀』と書かれていたからなの」
サキ:「あー、羽柴の『羽』も、丹羽の『羽』も、どっちにも入ってるもんね。今年は大河ドラマで秀長でなく、最近までずっと「長秀」だったから、ようやく『あれ?これ小一郎のことじゃない?』ってなったのかな」
エミ:「いい推測だと思うわ。再調査では、書かれた1583年は秀長が羽柴長秀と名乗っていた時期で、官職名の『美濃守』も入っていて、花押も秀長のものだと確認されたの」
サキ:「名前、花押、官職名と、証拠が三つ重なったんだ」
エミ:「内容は、下鳥羽にある法伝寺の住持をめぐる争いなの。浄土宗側と、公家の三条西家側が対立していて、いったん浄土宗の僧を認めた秀長が判断を改めて、浄土宗側に『遠慮』、つまり辞退を命じているのよ」
サキ:「一度決めたことを、自分で覆したんだね。なんか、潔い」
エミ:「母利さんは『京都宗教界の統制に秀長が大きな権限を持っていたことを示す』と話しているわ。書状は縦30センチ、横91センチで、約7,000点ある『善峯寺文書』の一部。この文書群は今年3月に京都府指定文化財になっているの」
サキ:「見られるの?」
エミ:「11月8日まで、善峯寺の寺宝館で公開中よ。さっきの秀吉の弟が、兄とはまた別の顔で出てくるのよね。豊臣兄弟、そろい踏みだったわ」
エミのメモ📝
寺の公式ページでは、秋季企画展『「善峯寺文書」へのいざない』と特集展示として紹介されています。なお、公式ページに「天正11年(1858)」とある箇所は、1583年の誤記とみられます。
3 黒井城跡の北側にも石垣、築いたのは光秀の家臣か
サキ:「秀吉と秀長の次は光秀? 兵庫の黒井城跡で石垣が見つかったってあったよね」
エミ:「ええ。国史跡の黒井城跡(丹波市)で、本丸の北側を含む計4カ所から新しい石垣が出たの。丹波市が10月29日に発表しているわ」
サキ:「黒井城って、どんなお城だったの?」
エミ:「14世紀に築かれて、戦国時代には荻野直正の拠点だったの。1579年に明智光秀の丹波攻めで落城して、その後は織田・豊臣方の家臣が改修しているわ」
サキ:「今までは、石垣はどこで見つかってたの?」
エミ:「城下町側の南斜面だけ。だから『権力を見せつけるために、見える側にだけ石垣を築いた』という見方が定説だったの。今回、北側からも出たことで、城全体を石垣で囲む造りだった可能性が高くなったのよ」
サキ:「定説がひっくり返りそうなんだね。誰が築いたかは分かってるの?」
エミ:「市教委は、落城後に城代になった光秀の家臣、斎藤利三が築いたとみているの。『とみている』という段階で、断定ではないわ。しかも小牧・長久手の戦い(1584年)に関する秀吉の文書では、黒井城が『古城』と呼ばれていて、短期間で壊されたと考えられているのよ」
サキ:「石垣を築いたのに、すぐ壊されたってこと? もったいない……」
エミ:「なぜ壊されたのかは、記事には書かれていないの。1カ所は表面の石が失われていて、裏込石だけが残っていたそうよ。見られる場所だけど、崩れる恐れがあるから、触ったり登ったりしないよう呼びかけているわ。登山口から徒歩約40分」
サキ:「歩きやすい靴が必要だね」
4 玉丘古墳で埴輪を並べた「造り出し」、11月3日に現地説明会
サキ:「兵庫の加西市でも発見があったんだよね。埴輪がたくさん出たって」
エミ:「そう。加西市の玉丘古墳よ。5世紀初頭に築かれた全長109メートルの前方後円墳で、兵庫県内でも有数の規模なの。加西市教委が10月28日に発表したわ」
サキ:「何が見つかったの?」
エミ:「前方部と後円部をつなぐ『くびれ』の部分を調べたら、埴輪を並べて被葬者を弔う儀礼を行った造り出しが確認されたの。埴輪は船形・甲冑形・水鳥形など10基以上。しかもすぐ北隣にも別の造り出しがあって、くびれの片側に二つ並ぶ形式は全国的に珍しいそうよ」
サキ:「へぇ〜。埴輪って、船とか水鳥まであるんだね」
エミ:「面白いのは、外側に張り出したこの区画が、これまで後世に改変された場所と思われていたことなの。堀の水を抜いたら、古墳時代の円筒埴輪が現れて、見立てが変わったのよ」
サキ:「水を抜く前は、水の底で見えなかったってことか。水の中だったから残ったのかな……あ、これは推測ね」
エミ:「保存の理由までは記事には書かれていないわ。ここは推測のままにしておきましょう。それより、時間のある人に朗報よ。11月3日(祝)に現地説明会があるの」


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