こんにちは、ブログ管理人のエミです。今日は静岡県浜松市・引佐町の国史跡「三岳城」に登った話です。井伊家の本城で、戦国期は井伊直虎の井伊氏が拠点とした……と言いたくなるけど、実はこの城が国史跡に指定された一番のポイントは戦国時代じゃなくて、南北朝時代。後醍醐天皇の皇子宗良親王がこの井伊谷を拠点に、南朝勢力を率いて転戦した50年のドラマがあったのです。
そして、麓まで降りてみると、井伊谷城のさらに先に「日本のストーンヘンジ」と私が勝手に呼んでる、とんでもない巨石遺跡があります。真冬の大桑城で遭難しかけた件をサキちゃんに散々怒られた私ですが……今回はちゃんと雪のない季節に行ってきました。それでもサキちゃんは「またひとりで山登ってる!」って怒っていましたが(笑)。
【ある休日の夜、エミの家にて】
(エミの自宅の一室。フルーツ牛乳を片手にサキがソファでくつろぎながら、エミから共有された写真フォルダーを自分のスマホでスクロールして見ている)
サキ:「ねえエミちゃん、この写真なに?また山登ってる!」
エミ:「えっ、どれ?」
サキ:「これこれ、緑の中をひとりで登ってる写真。また私に内緒でひとりで登山してたでしょ!?」


緑のトンネルの中、ひとりで登る山道。木漏れ日が気持ちよさそう……だけど
エミ:「あ、それね、三岳城の写真!静岡県浜松市の井伊谷にある、井伊氏の詰め城とされる標高466メートルの山城よ」
サキ:「井伊氏って、井伊直虎の井伊氏?大河ドラマの『おんな城主直虎』の!?」
エミ:「そう、その井伊氏。でもね、サキちゃん。三岳城が国史跡になってる本当の理由は、井伊直虎じゃないの」
サキ:「えっ、違うの?」
エミ:「直虎の時代は戦国時代でしょ?三岳城はね、その200年くらい前——南北朝時代の方がメインなのよ。後醍醐天皇の皇子・宗良親王がここを拠点にしてた」
サキ:「むね……なが?聞いたことないなぁ」
エミ:「ふふふ、よくぞ聞いてくれました。この親王、めっちゃドラマチックな人なの。50年もここから南朝東軍方面の指揮を執ってたんだから」
サキ:「(あ、エミちゃんの目が輝いてる。長文解説モード来るな……)」
そもそも三岳城ってどこ? 井伊谷の地形がスゴい
エミ:「まずは地理から。三岳城があるのは、浜松市の北のほう、引佐町井伊谷っていうエリア。今は浜松市浜名区の一部ね」
サキ:「浜名湖の北側だ」
エミ:「そう。井伊谷ってね、四方を山と丘陵に囲まれた小さな盆地なの。東海道からも少し奥まった隠れ里みたいな立地」
サキ:「あー、東海道の本街道からは外れてるけど、どこにでも出られる場所なんだ」
エミ:「ここがポイントなんだけど、井伊谷には城が二つあるの。山の上の三岳城と、盆地の丘陵に築かれた井伊谷城」
サキ:「同じエリアに2つも?」
エミ:「中世の城ではよくあるパターンでね、平時は麓の館で暮らして、戦になったら山の上の詰城(つめのしろ)に立てこもるっていう二段構え。じゃあ井伊谷城が平時の居館で、三岳城がいざというときの戦闘用ってことってなりそうなんだけど。井伊谷については特殊な要因があるの。それが国史跡たるゆえんなんだけど」
エミのメモ📝
「詰城(つめのしろ)」とは、要するに最後の砦。戦の時に逃げ込んで籠城する、たいていの場合は険しい山城。これを当てはめると、井伊氏の場合は、普段使いの方形居館が平地にあり、その裏山の井伊谷城(標高115メートル)が詰め城となります。では標高466メートルの三岳城は、最後の砦のさらに3段階目の最後の最後の城となるわけですが…。
サキ:「で、どっちにも行ったの?」
エミ:「行ったわ。でね、ここでサキちゃんに伝えたいことがあるの」
サキ:「ん?」
エミ:「井伊谷城だけ行って『井伊家のお城来たぜ!』って満足してるの、めっちゃもったいないからね!」
サキ:「えっ、急にどしたの」
エミ:「井伊谷城は旧役場の駐車場からすぐに歩いて行けるし、大河ドラマのあとにバリアフリー整備もされてるから、皆そっちで終わっちゃうの。でも国史跡になってるのは三岳城のほうなのよ。気合入れて三岳城まで登ってこそ、井の国を歩いたって言えるのよ!」
サキ:「(出た、運動音痴なくせに『山城攻めには気合を入れるタイプ』)」
エミ:「あ、安心して。三の城のところにある三岳神社までは車で行けるから。400メートルの標高差を登山するわけじゃないわよ」
サキ:「車で行けるんだ!じゃあ意外とラクなのね?」
エミ:「三岳神社(三の丸)から本丸(一の城)までは……まあ、それなりに登るけどね。でも大桑城とは比べ物にならないくらい行きやすい!」
サキ:「比較対象が雪山遭難未遂って、ハードル設定おかしくない?」
三岳城が国史跡になった本当の理由——南朝50年のラストスタンドマン
エミ:「じゃあ歴史の話、いくよ。三岳城が国の史跡に指定されたのは、なんと昭和19年(1944年)3月7日。戦時中ね」
サキ:「戦時中!?こんな時期に史跡指定なんてしてたんだ」
エミ:「むしろ戦争中というのがポイントだと私は思うの。三岳城は南北朝の南朝の重要拠点だったの。戦争中は皇国史観の影響もあって、南朝の後醍醐天皇の皇子たちの関連史跡は重視されてたの」
サキ:「南北朝時代って、日本に天皇が二人いた時代だよね?」
エミ:「そう。後醍醐天皇が始めた建武の新政が、足利尊氏の離反で崩壊して、京都の北朝(足利方)vs吉野の南朝(後醍醐方)に分裂したの。1336年から1392年まで約60年続いた」
サキ:「で、そこに井伊氏が登場するのね?」
エミ:「そう。井伊氏は南朝についたの。南北朝がはじまった1336年9月、早くも『井責(いぜめ)』、つまり井伊谷の城をめぐる攻防が始まってる。その翌月、後醍醐天皇の皇子・宗良親王が井伊谷に入ったのよ」
サキ:「皇族が来たんだ!」
エミ:「吉野にいた宗良親王がが遠江に移ったって『太平記』に書いてある。井伊氏は親王を迎え入れて、ここを南朝の東国総司令部みたいにしたの」
サキ:「すごい責任重大じゃん井伊家!」
エミ:「親王は1338年にいったん吉野に戻るんだけど、同じ年の秋にもう一度井伊谷に戻ってくるの。今度は本格的に拠点として使うために。この頃から三岳城は南朝の一大軍事拠点として強化されたわ」
サキ:「で、足利からは当然攻められちゃうよね?」
エミ:「1339年7月、足利尊氏の側近中の側近で三河守護の高師泰が動き出して、まず井伊谷の東隣の大平城を攻める。そして1340年(興国元年)正月30日——三岳城、ついに落城」
サキ:「半年も戦ってたんだ……」
エミ:「攻め手は高師泰、高師兼、仁木義長。足利方の最強カードデッキね。三岳城が落ちた後も親王たちはこちらも山城の大平城で抵抗を続けるんだけど、同年8月24日、大平城も落城」
サキ:「1年に二つ城を巡って激戦が繰り広げられたんだ……」
エミ:「これで遠江の南朝勢力はほぼ壊滅。宗良親王は駿河の安倍城、これも静岡市街地の北西にある山城ね、に逃れたと推定されてる」
サキ:「あっ、この間の斯波義達の引間城のときに、出来てた安倍山の金堀り衆の…」
エミ:「そうそう。で、ここからが宗良親王のすごいところで、その後も信濃を拠点に転戦を続けて、最終的にまた井伊谷に戻ってくるのよ」
サキ:「ええっ、戻ってくるの!?」
エミ:「そう。『I will be back』と言って井伊谷を去ったかは知らないけど、井伊谷城に伝わる話だと、親王は1337年から1385年までなんと約50年間も、この井伊谷を本拠として駿河、甲斐、信濃、越中、越後、上野……と各地で戦い続けたの」
サキ:「50年!? それって半世紀じゃん!」
エミ:「まさに約55年間、続いた南北朝の争乱の常に最前線に立っていた男なの。そして1385年8月10日、宗良親王は井伊谷で薨去。一説には73歳。最後の最後まで南朝の旗を降ろさなかった南朝のラストサムライみたいな人なの」
サキ:「うわぁ……皇族なのにラストサムライって。50年戦い続けて、最後は始まりの場所で亡くなる。なんかもう、それだけで一本ドラマ作れるじゃん」
エミ:「そう、そういう人なの。だから三岳城と井伊谷城(江戸時代に宗良親王の御座所「御所の丸」と伝わった)が国史跡なのは、井伊直虎じゃなくて、この宗良親王50年のドラマがあるから」

麓の居館があったとされるエリアは現在は住宅地(奥が井伊谷城のある標高115メートルの城山)
三岳神社(三の城)からスタート——車で行けるありがたさ

中央右寄り奥の山が三岳城(三嶽城)。標高446メートルはやばい高さ
エミ:「では実際に登った話に戻るね。三岳城の構造はね、山の尾根に沿って細長く曲輪が並んでて、一の城(本丸)・二の城・三の城の三つに分かれてる」
サキ:「3パーツ構成なんだ」
エミ:「西の峰が一の丸(本丸)、西の峰が二の城(二の丸)、中腹に三の城(出丸)。三の城に三岳神社があるんだけど、三岳神社までは舗装路で一気に車で行けるのよ!」
サキ:「マジか!じゃあ車で標高どのくらいまで稼げるの?」
エミ:「三の城は標高約400mくらいかな。山頂の一の城が466m。残りの標高差60〜70mを徒歩で登る感じ」
サキ:「それなら全然行けるじゃん!」

三の城にある三岳神社
エミ:「三の城のあたりに『角井戸』っていう井戸の伝承地があって、宗良親王が自ら水を汲ませた井戸って言われてるの」
サキ:「皇族が自分で水汲み……いや汲ませた、か。でも親王自ら関わったって伝わってるのが面白いね」
エミ:「で、三の城には宗良親王の庵室があったとも伝えられてる。籠城中、ここに住んでたのかもしれないわね」
サキ:「皇族が標高400メートルの山の上で籠城生活……」

サキ:「服装はどんな感じ?」
エミ:「秋だから朝晩冷えるかなと思って、ダウンベストにマフラー。でも歩いてるとちょうどいい感じ。ハイキングシューズは履いていったほうがいいかも。岩がゴロゴロしてて、スニーカーだと足首やられるかも」
サキ:「(大桑城のときよりはちゃんと準備していったんだ……)」
宗良親王の絶望と、紅葉の歌
エミ:「ここでもうちょっと、宗良親王のエピソードを話させて」
サキ:「(早口になってる)」
エミ:「親王が最初に三岳城に籠もってた1339年8月、父・後醍醐天皇が吉野で崩御するの」
サキ:「お父さんが亡くなったんだ……。籠城中に?」
エミ:「そう。しかも遠く離れた山の上で、敵に囲まれた状況で、その知らせを受けた。親王、その時どんな気持ちだったと思う?」
サキ:「うう……想像するだけで切ない」
エミ:「親王はね、三岳城の紅葉を一枝折って、歌を添えて吉野に届けたって伝わってるの。その歌が——」
おもふにもなほ色浅き紅葉かな そなたの山はいかが時雨るる
サキ:「……どういう意味?」
エミ:「『私の悲しみを思えば、この紅葉の色さえ浅く感じられる。父上の眠るそちらの山は、どのように時雨れていることでしょう』みたいな意味」
サキ:「うわ……」
エミ:「『私の悲しみのほうが、この紅葉の赤よりずっと深い』っていう、紅葉の赤を悲しみの色に重ねてる歌なの」
サキ:「(うるっ)……エミちゃん、それ反則」
エミ:「(目を潤ませながら)でしょ?私もこの歌、現地で思い出して泣きそうになった。籠城中の山の上で、敵に囲まれて、父も亡くなって、それでも歌を詠んで吉野に届けようとする……。なんとも健気というか、教養高いってていうか」
サキ:「武力では劣勢の中で文化だけでは負けないぞって意志を感じる。もしかしたら、それしか手元になかったのかもしれないけど…」
エミ:「親王は李花集っていう歌集を編んだほどの歌人なの。戦と歌の50年を生きた人だった」
一の城(本丸)へ——標高466mの眺望は圧巻
エミ:「三の城から一の城までは、尾根伝いに登っていくの。うっそうとした森を抜けて最後の斜面を登っていくと——」



サキ:「……うわぁ」
エミ:「ね? これが一の城本丸からの景色。標高466.3メートル、ここが三岳城の最高所」
サキ:「あれ、水平線が見えてる。そこから手前に広がっている水面って……」
エミ:「そう浜名湖。眼下に引佐の平野が広がって、その先に浜名湖、さらに遠州灘(えんしゅうなだ)まで見渡せる。遠江一国を一望にできる立地なの」

三岳城からのパノラマ
サキ:「軍事拠点としてめちゃくちゃ理にかなってる!敵が来るのが見えるじゃん」
エミ:「そう、宗良親王はここから遠江の情勢を見守ってたわけ。敵の動きが手に取るようにわかる。逆に、攻めるほうから見れば『あの山の上から見下ろされてる』っていう圧迫感」
サキ:「で、足利方はそれでも攻めて、落としたんだもんね……。1340年正月って、めっちゃ寒いし」
エミ:「正月の山城攻めって、考えるだけで鬼畜よね。城方も攻め手も、双方地獄」
サキ:「……でもさ、エミちゃん、雪の残す山城に単独で登った人が言うとちょっと説得力あるな」
エミ:「あ、それは触れないで。反省してるから」
エミ:「本丸跡は20メートル四方くらい。でも周囲に帯郭(おびくるわ)っていう細長い段差がいくつも巡らされてて、四・五列は数えられるって言われてる」
サキ:「等高線みたいに段になってるんだ?」
エミ:「そうそう、まさに等高線状。サキちゃん、理系の例えうまい。敵が登ってくるのを段ごとに止められるようになってるの」
エミ:「西側に急斜面を下ると、尾根に対して直角方向に二重の堀があるらしいの。下の堀は幅8メートル・深さ3メートルもあるらしい」
サキ:「深さ3メートル!? 落ちたら登り返せないやつじゃん」
エミ:「堀切(ほりきり)っていう、尾根を断ち切って敵が尾根伝いに攻めてくるのを防ぐ防御施設ね。大桑城でも見たでしょ?あれよ」
サキ:「あー、岩の壁の間を通る写真の!リアルダンジョンのやつ。あれ、今回の写真は?」

エミ:「この西側は戦国時代の遺構ではないかとも言われているから、それを確かめようとしたんだけど」
サキ:「なんかカメラが回転してる?」
エミ:「落ち葉ですべって滑落しそうになったから、行くのはあきらめたの…ごめんね、写真がなくて」
サキ:「いやいや、そこ、謝るところじゃないから。無理しゃちゃだめだよぉ」
二の城はパス——でも、ある
サキ:「で、二の城は?」
エミ:「二の城も今回はパスしたの」
サキ:「えっ、行かなかったの?」

エミ:「一の城から東に200メートルくらい尾根を下ってまた登ったところに二の城(二の丸)があるんだけど、道がちょっと荒れていて、なんか嫌な予感しかしなかったから」
サキ:「賢明じゃん、エミちゃんも学ぶんだ?」
エミ:「学んだのよ……。『行ける時に全部行こうとして遭難する』のはもう卒業します……帰りを待ってくれてる人もいるし…」(顔を少し赤らめてチラ見)
サキ:(スルーして)「それが正解!」

井伊谷城。期待しすぎないでね
エミ:「で、ここで山を下りて井伊谷城へ。城山と呼ばれる丘陵にあるけど、旧町役場の駐車場から徒歩10〜15分で一気に本丸まで行ける、こっちは完全に散策コース」

サキ:「やっと安心して聞ける場所が来た……」
エミ:「ただね、サキちゃん。先に言っておくわ」
サキ:「ん?」
エミ:「井伊谷城、お城としてはたいしたことないの」
サキ:「ええっ!? いいの? そんなこと言って!?」
エミ:「だって本当のことだもん。山頂部分を『方形を気持ち意識しました』って南側だけ土塁を巡らせた感じの単純な構造」

南側は土塁が巡るが北側は自然の地形のまま
サキ:「言い方きつい……でもそんなレベルなんだ」
エミ:「眺望もね、浜名湖も見えなくて、ここは盆地だな〜って分かる程度。三岳城の本丸からのあのパノラマと比べると、もう全然」

サキ:「そっか、最初に井伊谷は四方を山で囲まれているって言ってたもんね」
エミ:「で、ここからが大事なんだけど、井伊谷城には戦国末期の改修が見られないのよ」
サキ:「戦国末期の改修……?」

エミ:「ほら、これ見て!現地の解説パネルに書いてあったんだけど、徳川家康と武田信玄・勝頼が遠江の覇権を争うようになると、普通はお城に斜面を削って曲輪を作ったり、堀を備えたりするようになるの。山城が複雑化していく時代ね。三岳城の西側も構造の複雑さから、家康VS武田時代の改修ではないかとも言われているわ」
サキ:「(丁寧な現地の解説はありがたいけど歴オタに餌を与えすぎると…)あー、戦国らしいガチガチの防御施設になっていくんだね(棒)」
エミ:「ところが井伊谷城には、そういう戦国らしい施設がない。なにしろ主郭の北半分は土塁すら巡らせていないんだから。ある意味、平和な時代の山城の特徴を残したまま、廃城になっちゃったの」
サキ:「……それって、つまり?」
エミ:「家康vs武田の時代に、井伊谷城は『現役の城』として更新されてなかったってことよ。戦国の波に乗り遅れたまま、時代に置いていかれた城」

サキ:「そんだけ辛口のわりにはウキウキで自撮りしているね」
エミ:「そりゃあ、もう。だって井伊直虎が住んでいたかもしれない城だもん!」
直虎の時代、井伊家は「中絶」していた
サキ:「で、直虎の時代って、まさに今川と徳川と武田が遠江で殴り合ってた時期だよね?」
エミ:「永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで誰が戦死したと思う?」
サキ:「(逆質問だ)そんなの今川義元に決まってるじゃん」
エミ:「義元軍に従軍して戦死した一人に井伊家22代目の井伊直盛がいたの。さらに桶狭間では一族・重臣16人が犠牲になってまさに井伊家は壊滅状態になった」
サキ:「そうだったんだ。確かに三河の家康も義元軍で従軍しているから、遠江の武士も参加していておかしくないね」
エミ:「桶狭間で当主をはじめ主だった男たちがみな死んでしまったから、直虎が女城主になったというのが大河ドラマのお話よ」
サキ:「そうだったかも」
エミ:「1560年の後、武田信玄の遠江侵攻の三方ヶ原戦いが元亀3年(1572年)、その後も1582年の武田家滅亡まで、家康と武田家は遠江を主戦場に血みどろの激闘を繰り広げていた。でもその間の井伊谷城は、戦国仕様にアップデートされてない。これが何を意味してるか——」
サキ:「えっと……井伊家、お城に手を入れる余裕がなかった?」
エミ:「私の解釈ではね、井伊家は直虎の時代には、地元の有力武士としてはほぼ中絶していたと思うの」
サキ:「中絶……断絶じゃなくて、中絶?」
エミ:「断絶じゃない。一時的に機能停止してた、っていう感じ。当主が桶狭間で討ち死にして、跡を継いだ従弟の直親も家康との内通を疑われて今川氏真に殺されて、当主不在で家臣も離散。お城を整備するどころじゃない状態よ」

井伊直親の墓
サキ:「うわぁ……ボロボロじゃん」
エミ:「自治や地方政治を行える地元の武士としての井伊家は、この時期、実質的に動いてなかった。高い標高の三岳城の西側は改修された可能性があるのに、井伊谷城は山頂北半分の土塁の増築すらされずに古いまま放置された。これがこの城の構造から読み取れることなの」
サキ:「あ、待って。じゃあ井伊直虎は……?」
エミ:「ここでサキちゃんに告白するけど、実は私、井伊直虎の女城主説、完全否定派なの」
サキ:「出た!エミちゃんの直虎女説否定論!何度も聞いてから知ってたよ!」
エミ:「そうだっけ。直虎が女か男かの諸説についてはWikipediaで確かめてほしいんだけど。ともかく、女か男に関わらずちゃんとした権限を持つ井伊家の城主というものがこの時期存在していなかったことが、井伊谷城が『戦国アップデートが入ってない』とも整合するの」
サキ:「考古学が女城主に殴りかかってる」
エミ:「もし直虎が本当に女城主として領地経営してたなら、武田が来るって時に城を改修しないわけがないでしょ?でも井伊谷城にはその痕跡がない。現地の城が『そんな城主はいなかった』って語ってる感じがしてね」
サキ:「(エミちゃんの目つきが変わってる……これは触れたら長くなるやつ)」
エミ:「あ、ごめん、また長くなった。とにかく、井伊谷城を見ると『直虎の時代の井伊家は本当に厳しかったんだな』って体感できるのよ。それが私的には一番の収穫」
サキ:「お城が地味なこと自体が、歴史の証拠ってわけだ」
エミ:「そう、そういう見方ができるとお城めぐりが面白くなる。『立派な遺構がない』ことにも意味があるよ。もしも国史跡など、それ自体が貴重な遺構を持つお城だったら、これだけバリアフリー化されないわ」


サキ:「(褒めてるんだか、落としているんだか)舗装されて手すりも整備されているんだ。うーん、でも正直、井伊谷城の話を聞くと、ちょっとテンション上がりにくいかも……」
エミ:「ふっふっふ」
サキ:「?」
エミ:「サキちゃん、実は麓には井伊谷城より、もっとすごい圧倒的な遺跡があるのよ」
サキ:「えっ何それ」
麓の本命——「日本のストーンヘンジ」天白磐座遺跡

エミ:「天白磐座遺跡。私が勝手に『日本のストーンヘンジ』って呼んでる場所」
サキ:「ストーンヘンジ!?急にすごいパワーワード来たんだけど」
エミ:「井伊家の氏神・渭伊神社の本殿裏の薬師山っていう小さな丘の上に、巨石が3つ並んでる古代祭祀遺跡なの」
サキ:「巨石が3つ……規模は?」
エミ:「ひとつの岩は高さが7.4メートル、南北10.3メートル、東西6.8メートル。3階建ての建物くらいあるわ」
サキ:「ええっ、そんなに大きい巨石!?」
エミ:「東岩も高さ5.2メートル、北岩は高さ2.7メートル。この3つが並ぶ様は、神秘的を超えて神の見えざる手ってくらい絶妙な配置なの」
サキ:「オーパーツ?」
エミ:「いえ、完全に自然の産物よ。チャート岩が露頭して長い年月を経て風化して3つに分かれて地上にラビリンスを作っているの。この絶妙なバランスを古代の人が『神が降りる場所』として祀ったのも当然よ」
サキ:「磐座(いわくら)って、神が降りる場所のことだよね?」
エミ:「そう。神様が降臨する自然の岩のことで、岩や山への信仰は日本の神道のかなり古い形とされているわ」
サキ:「で、いつごろの遺跡なの?」
エミ:「ここがすごいんだけど、古墳時代前期(4世紀)から鎌倉時代(13世紀)まで、約900年間ずっと祭祀が続いてたのよ」
サキ:「900年!? ヤバ……」
エミ:「西岩の真下から、古墳時代の手づくね土器が200個以上、滑石製勾玉、鉄矛、鉄刀、鉄鏃……。さらに平安時代以降は経塚関連の遺物も出てる。時代を超えて祈り続けられた場所なの」
サキ:「それ、本当にすごい場所じゃん……」
エミ:「指定は『渭伊神社境内遺跡』として静岡県指定史跡。でも私的には国史跡級だと思ってる。神宮寺川が井伊谷に流入する喉元の位置にあって、『水分(みくまり)』、つまり水の神を祀る祭祀だったとも言われてる」
サキ:「水の神様……井の国だもんね、井伊谷って」
エミ:「そう!『井の国』『井伊』『渭伊神社』、ぜんぶ『井(水源)』にちなんでる。井伊家の苗字の由来も水源信仰なのよ。その原点が、この巨石ともいえる」

井伊家の始祖が赤ちゃんのときに捨てられていたという伝説のある「井伊氏祖 共保公出生の井」。「始祖が捨て子」という始祖伝説は日本だけでなく世界中の神話や英雄譚でも頻繁に見られるモチーフです
サキ:「井伊家の精神の源流じゃん……。あっ『おんな城主直虎』でも、子供時代の直虎たちが竜宮小僧を探すシーンでここが使われてたじゃん」
エミ:「で、ここからが大事なんだけど、磐座の祭祀が始まったのが4世紀。井伊氏が記録に出てくるよりずっと前から、ここでは祈りが捧げられてた。井伊氏の氏神信仰は、もっと古い土着の磐座信仰の上に乗っかった形なの」
サキ:「歴史の地層みたいだね……」
エミ:「縄文・弥生の土器片も周辺から出てるから、もっと古い時代から人が集まる場所だった可能性もあるの。さらにね、出土遺物には諏訪式の土器とか黒曜石とかが混じってて——」
サキ:「ちょっと待って」
エミ:「?」
サキ:「エミちゃん、その先は今度にしよう」
エミ:「えっ?」
サキ:「私、三岳山には登山するつもりないけど、巨石遺跡は気になる」
エミ:「う、うん」
サキ:「だから今度、天白磐座遺跡に一緒に行こう。ね?」
エミ:「えっ、いいの? 付き合ってくれるの?」
サキ:「っていうか、一人で行かせないから」
エミ:「!」
サキ:「ただし磐座だけ! 三岳城には登らないからね!?あとウナギも食べよう。あっ、まさか一人で、うな重を食べてきたりしないよね?」
エミ:「はい……食べました……一緒に行ったときはゴチします」
サキ:「(やったー)うん、反省しているなら、いいよ」
結論——三岳城に登り、磐座に祈れ
エミ:「というわけで、井伊谷散策の結論ね」
サキ:「うん」
エミ:「『三岳城』と『日本のストーンヘンジ・天白磐座遺跡』と今回紹介しなかったけどお庭もきれいで井伊家菩提寺の『龍潭寺』の三つが井伊谷観光の本命。井伊谷城は……整備されていて歩きやすいので、時間があればぜひどうぞ(棒)」

龍潭寺

明治天皇の命により陵墓の修繕と南朝功臣を祀る神社の創建が進められました。これを受け井伊家の当主・直憲が、宗良親王を祀る井伊谷宮の創建と陵墓修繕を願い出ました。費用はほぼ井伊家が負担して実現しました。
サキ:「散々ディスったね、井伊谷城」
エミ:「ディスってるんじゃないの。『戦国末期の改修が入ってない=直虎の時代の井伊家の姿そのもの』として価値があるのよ。ただ、城攻め的に楽しめるかというと別問題、ってだけ」
サキ:「南北朝の宗良親王50年のドラマと、4世紀から続く磐座信仰。戦国の井伊直虎より、もっと深い時間軸が井伊谷にはあるってことね」
エミ:「そう! 戦国時代だけじゃなくて、古代の磐座→南北朝の親王→戦国の井伊家って、千数百年の時間が積み重なってるのが井伊谷の魅力なのよ」







標高:466.3メートル(一の城=本丸)
指定:国指定史跡(昭和19年3月7日指定)
アクセス:三岳神社(三の城)まで車で登れる。神社駐車場から本丸(一の城)まで徒歩約20〜30分。新東名高速「浜松いなさIC」から車で約20分
注意:登山道は岩がゴロゴロしているのでハイカットシューズ推奨
井伊谷城跡(いいのやじょうあと)
所在地:浜松市浜名区引佐町井伊谷
標高:約115メートル(城山)
アクセス:駐車場から徒歩で本丸まで約10〜15分
構造:山頂に土塁を巡らせるだけの単純な構造。古い時代の方形居館の特徴を残したまま廃城になったとみられ、戦国末期の改修は確認されていない
周辺:龍潭寺(井伊家菩提寺)、井伊谷宮(明治5年創建、宗良親王を祀る)、二宮神社(宗良親王を祀る)、足切観音堂なども近い
天白磐座遺跡(てんぱくいわくらいせき)
所在地:静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷1150(渭伊神社境内)
時代:古墳時代前期(4世紀)〜鎌倉時代(13世紀)の祭祀遺跡
規模:西岩(高さ7.4m)・東岩(高さ5.2m)・北岩(高さ2.7m)の3つの巨岩。チャートの露頭と転石
アクセス:渭伊神社(駐車場数台あり)の本殿脇からのぼりすぐ


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