江戸時代を通じてあった「何年たっても農地は原価で買い戻し特約」は実は江戸後期オンリーの特例だったようだ。

タイトルにあるように、質流れして所有権が変わった不動産を何十年後に元の持ち主が利息抜きの原価で買い戻すことができる。
この慣習のことを歴史用語で「無年季的請戻し慣行」と呼ぶ。
しかし、考えてみれば、あまりにも常識はずれなことで、一種の戦後の「江戸時代ユートピア」「共同体幻想」的な考えに思える。

『日本歴史 2018年10月号』(吉川弘文館)に載った菅原一さんの論文「近世中後期における無年季的請戻し慣行の実態」を読んでの感想だ。

論文のタイトルでは、いったいなんのことやらわからないが、読んでみると、かなり激熱な内容だった。
宝暦元年(1751年)には村一番だった地主が、50年後の文化3年(1806年)には、貧困層に没落していたり、宝暦には中間層の農民だったのが天明期(1781~1789年)以降に村一番の大地主にジャンプアップしていたり。江戸時代の農民の下克上ぶりには驚かされる。

さて、あらためて論文のテーマである「無年季的請戻し慣行」とは、

質地における証文の文面等とは別に、元金を返済すれば質入れより何年経過していても請戻すことができるという慣習

のこと。(34ページ)

最近の事例に当てはめると、以下の「カボチャの馬車」のようなマンション投資融資と比べるといいだろう。

Aさんは、3000万円の賃貸用アパート物件を購入するために、駿府銀行(仮名)から3000万円のローンを借りました。
ところが、すぐにサブリース先の「西瓜の馬車」が経営破綻して、家賃が入ってこなくなり、まもなくAさんは駿府銀行にローンを返せなくなり、賃貸用アパートは差し押さえで競売(質流れ)になりました。競売では、まったく善意の第三者のBさんが落札しました。
それから20年後、Aさんは地道に働いて、3000万円を貯めました。
20年が経過してインフレのため、Bさんが落札したアパートは6000万円の価値になっていました。
そこでAさんは「3000万円渡すからそのマンション返せ」とBさんに要求したのです。
Bさんは「そんな無茶な!」と当然意義申し立てをして裁判になりましたが、裁判所はなんと「もともと3000万円借りた不動産だから、3000万円返せば戻ってくる。それが美しいニッポンの共同体の決定である」との判断をしたのです

「無年季的請戻し慣行」は、白川部達夫・東洋大教授が1986年に『歴史学研究』で発表した「近世質地請戻し慣行と百姓高所持」がスタートで、この慣行は江戸時代を通じてあり、特に19世紀(江戸時代後半)に、地主VS村共同体の対立の中で、共同体側の切り札として使われたというのがこれまでの説のようです。

これに対して、大塚英二氏が「質地請戻し・土地取戻しと「家」・村共同体」(藪田貫編『民衆運動史3 社会と秩序』青木書店、2000年)などで、この慣行は、江戸前期や中期にはなく、江戸後期以降にみられる臨時的な「発動」だったのではとしていて、今回の論文はそれを補強する内容です。

論文筆者の菅原さんは、長野県長野市の一つの村の120年間(1751年~1870年)の土地の移動の記録(件数約2239件)を調べたところ、どうやら江戸時代中期にはこの仕組みがほとんど使われず(つまり慣行ではない)、後期からぐんと増えている。

それも、この無茶ぶりな決定がされた相手(質流れで昔に買った土地を当時の借り入れ元金で返さないといけなくなった債権者)の多くは、その村外の農民らであることが浮かんだのだ。村の土地をよそもんに渡すわけにはいかん!という理屈だと、この後出しじゃんけん的な徳政令的な土地の買い戻しが松代藩に認められたのも、なんとなく理解できます。
隣接する村の農民が所有する田畑が増えてきた、というのは村の共同体としては色々問題がある。

マンションでも、持ち主が住んでいると管理組合などがうまく運営されますが、持ち主は別のところで賃貸しているだけという場合、管理組合が「マンションのコミュニティの育成のために夏祭りをしましょう。管理費から費用は出しましょう」といったことに、賃貸オーナーはいやがる傾向にあるのと似ている。

さらに、村が「伝家の宝刀」を抜くことになった原因として、天保の大飢饉もあった。
隣村の所有者にとっても、田畑があればあるほど税金(年貢)はあがるのに、飢饉なのでむしろマイナスになるという状況もあり、まとまった現金がもらえるならと涙をのみながらも同意したという面もあったのだろう。

長野県の一つの村のケースだけだが、「無年季的請戻し」という行為はあったけど、慣行だったとは言えないようだ。用語としては、「無年季的請戻し特例」がふさわしいのではないか。いってみれば、これも戦後に作られた「江戸しぐさ」の一種なのかもしれない。

とにもかくにも、「定説」を覆す論文は面白い。

ちなみに筆者の菅原一さんは一橋大大学院の博士後期課程とのこと(掲載時)。これも偏見だが一橋というとマルクス経済の牙城のイメージがある。そこの大学院生が共同体幻想を打ち払う新説を出す、というのも、やはり時代は変わったのだなぁと感慨深い。

歴史でドヤ顔すると恥ずかしい目に合う

ヤフー知恵袋でこれに関連した質問と答えがでている。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12182172012

江戸時代、質地騒動について教えて下さい。

幕府が質入れ禁止を行うことは農民からしたら困ることだったのですか?

農村が質入れできなくなり、お金が借りられなくなり困るということで騒動が起きたのでしょうか?

理由を教えてください

との質問に対して、

正しい回答をしていない方、理由になっていない方が多かったので回答させていただきます。(カテゴリマスターとは名ばかりですか、、悲しいです)

質問者さまの考え方は間違っていまして、いくつか江戸時代における前提があります。

まず、江戸時代において、「無年季的質地請戻し慣行」という習慣が存在しました。これはどういうものか。これは、たとえ質流しによって土地を失っても、借金を返済しさえすれば、土地の所有権を取り戻せるという概念が農民の中にありました。これは現代では考えられないことです。明治時代になり、近代的土地所有が認識され、是正されることとなります。

この慣行を踏まえ、質地騒動の話をさせていただきます。幕府の出した、田畑永代売買の禁令によって、農民の中に混乱が起こります。どういう混乱か。「田畑が売り買いできなくなったならば、俺が質流しした土地は返ってくるもんだ」という考えが生じます。先ほどの慣行を加味すれば理解できる話です。(無論、幕府が禁止したのは禁令を出した以後の質流しを禁止するためだけのものです)

これにより、質流しをした農民が暴動を起こしました。これこそが質地騒動です。

これ以後、幕府は騒動を防ぐため、土地売買は黙認せざるを得なくなりました。

その後、明治政府による地券交付により、近代的土地所有権が確立されていきます。

この論文がでる前までは、よい回答だったのだろう。
この質地騒動は、享保7年(1722年)なので、今回の論文からすると、質地騒動のときに「無年季的質地請戻し慣行」はまだなかった。
「正しい回答をしていない方、理由になっていない方が多かったので回答させていただきます。(カテゴリマスターとは名ばかりですか、、悲しいです)質問者さまの考え方は間違っていまして」とかなりの強気の回答者だが、この習慣が江戸時代を通じて存在しなかったとなると、「正しい回答をしていない方」とブーメランで突き刺さる。

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