BLM(Black Lives Matter=黒人の命は大切だ)運動が飛び火して、日本の「ブラック企業」との言い方は、ブラックイコール悪としており、差別的だとの指摘がある。
何年も前から在日の黒人ら当事者は声を上げてきたが、ブラック企業撲滅と言う、より大きな大義があるとして、ほとんど無視されてきたようだ。
これに対して、「言葉狩りだ」というカウンター的な批判も多い。
自然に、差別的な感覚もなしに使っていた言葉が、「差別だ」と批判されると、感情的にもそれを認めがたくなるのも人情だ。(自分が差別主義者だとレッテルを貼られる恐怖といってもいい)
そんなときに、塩見鮮一郎『差別の近現代史 人権を考えなおす』(河出文庫)を読み始めた。コロナ前後に書かれた文庫書き下ろしだ。
QA方式で、幕末以降、近代化がもたらした差別の歴史をわかりやすく、そして思い切り主観的に描いているが、学びが多い。
妊娠した正社員はテレワーク(在宅勤務)が認められますが、パートの場合は妊娠でも許可しないという記事を読みました。母体と胎児への差別以外のなにものでもありません。隠されている差別がむきだしになるのは、いつの時代でも不況下です。いまその時期に入ったので、これから数年、市民(社員)から貧民(失業者)への嫌悪、腹立ち、ののしり、いやがらせ、暴力が出てくるでしょう。いつ自分が貧民の側に墜ちるのかわからないくせに、いや、その不安があるからこそ弱者にいら立つのでしょう(169~170頁)
白人警官が黒人容疑者を窒息死させたことからはじまった全米やヨーロッパでのBLM運動は、上のように「不安になった」白人の過剰ないらだちが発端だったのかもしれない。
著者は、新型コロナの席巻で、隠されていた「どす黒い心」がさらに吹き出す、という。
冒頭に書いたように、日本では、BLMを受けて、「どす黒い企業」を示す「ブラック企業」という言葉が、黒人差別ではないかということが注目されるようになっている。ブラックをどす黒いという意味に使うことに反対する当事者も、別に「どす黒い」という言葉を使うなとまでは言っていない。ただ、新語でわざわざ悪い意味で「ブラック」を使うな、という至極もっともな主張だ。
差別概念の根底には、占領軍が挿し木した「平等」がバックボーンとしてありますが、「不平等」と大上段にかまえるより、「差別」と言ったほうが市井の人間関係がよく見えたのです。なんでもない日常の会話、表情や物腰などに感じる違和を、差別という概念をつかうとうまく認識できた(114頁)
上の引用は、戦後の差別語の言葉狩りについての話だが、この指摘は、「ブラック企業」という言葉がうまれた経緯と照らし合わせても、うなずける。
コロナの不況は必ず来る。そのときに日本社会に、自分のまわりに、そして自分自身に、ふつふつとわいてくるであろう他者への怒り。その怒りを差別に転換しないように、この本を時折読み返してみたいと思う。
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